1: 当時の説明
今日の箇所は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」と言います。マルコがこの書を記した時代は、ローマ帝国による迫害がより一層ひどくなっていた時代でした。このとき「憎むべき破壊者がたってはならないところに立っていた」という出来事が起こりつつあった。ローマ帝国による迫害の時が迫っていたのです。
2: 私たちの恐怖
今日の箇所、イエス様の語られた、差し迫る苦難の時は、ある意味で、私たちの生活のなかで、これまでも何度も起こってきている。「信じられないほどの苦難の出来事」、とてもではないけれど信じられない出来事が、この世ではすでに何度も、数えきれないほども起きてきているのです。それは、世界の天変地異など大きなことだけではなく、私たちの身近なことで見てみれば、他者から見ればそれほど大きくなくても、忘れられないほどの苦難、逃げ出したい不安に出会ったことは、私たちにも何度もあるのではないでしょうか。
人間関係のトラブル、隣の人に嫌われていないだろうかと考える時、私たちはそれだけでも「不安に陥る」のです。人間関係の崩壊は、私たちを本当の不安、絶望に陥れるのではないでしょうか。そのような私たちに、聖書は「祈りなさい」と教えるのです。
3: 主は来られ 主は来られる
聖書は「人の子」が来られると教えます。人の子、イエス・キリストは、苦難の僕、十字架のイエス・キリストとしてこの世に来られました。神様は、私たちと一緒に生きる事を決心されたのです。自分勝手で神様のことなど心にも留めない者と共に生きること、関係を造り上げるために一緒に歩き続けることを決心されたのです。
そして、今日の箇所の「これから人の子がやってくる」という言葉は、「すでに来られたイエス・キリスト」の延長線上にあるのでしょう。わたしたちはイエス・キリストに出会い続けていくのです。これからもキリストは私たちの隣にいて、私たちと出会い続けるのです。
4: 呼び集められる方
わたしたちの主イエス・キリストは、わたしたちのところに来てくださいました。そしてこれからも私たちのところに、来つづけるのです。今、わたしたちは何のために生きるのでしょうか。わたしたちは、イエス・キリストによって生きて、キリストのために生きる。それが私たちの生きる命の答えです。これが私たちの生きる意味のすべてです。主が来られる時、私たちは呼び集められます。いずれ主が私たちを呼び集め、必ずその関係を完成してくださる。それはこの世に生きる私たちの最大の希望となるでしょう。わたしたちは、すでに来られ、これから来られる方を見上げて祈り続けるのです。「主よ来てください」と祈り続けるのです。わたしたちは主が来られる日を待ち望み、祈り続けていきましょう。
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