1 ヨセフ物語
今日からヨセフ物語に入ります。アブラハム・イサク・ヤコブと繋がれてきた信仰の歩みが、ヨセフへと繋がれていきます。アブラハム・イサク・ヤコブ物語は、それぞれにアブラハム・イサク・ヤコブを中心として話が進んできました。それでも、そこには時に系図があり、物語とは少し外れた話があり、それぞれに編集された物語です。これから学ぶヨセフ物語は、物語としての性格がとても強いものです。いくつかの話をまとめたというよりも、一つのきちんとした物語として読むことができるのです。
今日の話はヨセフ物語の舞台設定と、その序章というところでしょう。
2 ヤコブの偏愛
ヤコブには妻が4人いました。レア、ラケル、ビルハ、ジルパ。その中でも特にヤコブはラケルを愛していたのです。もともとヤコブはラケルを愛したのです。しかしラバンの策略によって、ヤコブはまずレアと結婚し、そしてラケルと結婚したのです。そして子どもが与えられるために、ラケルは自分の女奴隷ビルハを与え、レアがジルパを与えたのです。
ヤコブの子ども12人はこのような状況の中で生まれた子どもたちです。とても複雑な家族構成、兄弟関係となっていたのも理解できます。そしてその中でヤコブはヨセフを特に愛したのです。さかのぼるとアブラハムにもイサクとイシュマエルという子どもがいました。この時もイシュマエルがイサクをからかったので、アブラハムは母ハガルとその子イシュマエルを追い出すのです。そしてアブラハムの子どもで、約束の子とされるイサクも、子どもに対しては偏愛の中で育てることになるのです。父イサクは兄エサウを愛し、母リベカがヤコブを愛したのです。ヤコブはその偏愛の中に生まれ、育ち、今、多くの子どもを与えられました。ヤコブはラケルを愛していましたし、ヤコブがヨセフを溺愛したのです。そしてそれが家族の関係の崩壊が生まれるのです。
聖書は、このヤコブの偏愛をそのままに伝えます。そしてそれはアブラハム・イサクに続くものでした。聖書は祝福の続き、信仰の歩みを描いている、しかしそこには人間の間違え、弱さ、そして限界を教えるものとなっています。わたしたちはここに人間の限界を見るのです。人間は家族であっても平均的に同じように、すべての人間を同じように愛することはできない。人間には本当の愛、完全な愛をもつことはできないのかもしれません。それが人間なのです。だからこそ私たちは神様からの愛の注ぎをいつもいただいていく必要があるのです。
3 ヨセフの行為
ヤコブは愛するラケルの残した子どもとして、ヨセフを愛したのです。そしてヤコブの心を自分だけに独占しようとしているヨセフの姿があるのです。
「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。」(2)これは、原文では「彼ら(兄たち)についての悪い話を父にもたらした」となり、「あることないこと」を父に報告したともとることができる言葉なのです。「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(4)
「穏やかに」、それは「シャローム」という言葉で、「平和」「平安」と訳すこともできますし、「挨拶の言葉」でもありました。兄たちは、ヨセフと挨拶もできなくなっていた。ヨセフを憎み、平安に話すことはできなくなっていたのです。
4 ヨセフの夢
そのような状況の中で今日の箇所ではヨセフは夢を見ます。
「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(6-7)「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」(9)
「夢」はこのヨセフの物語では重要な意味をもつ言葉となります。ヨセフの物語において神様がヨセフに直接語りかけ、祝福や契約について話される場面はありません。ヨセフは夢を神様の御心と受け取ったのです。このあとも夢の解き明かしによって、ヨセフは用いられていくことになります。
今日の箇所においてヨセフは夢を見ます。1つ目はヨセフの束が起きあがり、兄たちの束があつまりひれ伏したというのです。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(6-7)
兄たちはヨセフが自分たちを支配するようになると、この夢を解釈しヨセフを憎みました。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」(8)この夢の解釈はヨセフも変わりなかったのではないでしょうか。これはヨセフの願望でもあり、また兄たちの気持ちを表しています。自分が一番だと思っているヨセフに、それを憎む兄たちです。お互いのその思いの詰まった夢であり、夢の解釈だったでしょう。
ヨセフはつづけてもう1つ夢を見ます。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」(9)そして今度は、ヨセフは兄弟だけではなく、父ヤコブにも話したのです。ヤコブは叱って「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」(10)と言います。兄たち同様、父ヤコブの夢を同じように解釈します。家族の中でヨセフの傲慢さがあふれ出ていて、その感情がここに現されているのでしょう。
実際にこの夢は、夢そのものが現実で起こるのではなく、夢の解釈が現実として起こっていきます。この人間の傲慢、怒り、憎しみの詰まった解釈ですが、それが事実、神様の導きとなっていくのです。そしてそれは将来的には、家族の崩壊ではなく、家族を、そして多くの人々を飢饉から救い出していくこととなります。ここには神様の御業の大きさと、その御心の偉大さを見るのです。
5 心に留める
「父はこのことを心に留めた。」(11)ヨセフの夢は確かに憎しみを大きくさせました。それでも父ヤコブはこのことを「心に留めた」のです。心に留めたということは、信仰の一つの姿ではないでしょうか。ヤコブは自分自身もひれ伏すと言われ、不愉快であったことは確かなことです。ヤコブはその不愉快な事柄を心に留めておいたのです。これは、ヤコブが神様の御心の大きさを知っていたからです。ヤコブはこれまでの人生を通して、神様の偉大な御心を知っていました。だからこそ、このヨセフの言葉も、これから歩んでいく人生において心に留めておく必要を感じたのでしょう。わたしたちの人生は何が起こるかわかりません。予想もつかない喜びもあれば、苦しみもあるでしょう。どのような中にあっても神様は私たちを御心のうちに生かされているのです。わたしたちは今わからないことでも、いずれ教えられる神様の大きな御心を信じていきたいと思います。
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