1 主があなたと共におられる
神様は天使ガブリエルを通して語ります。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28)神様の福音のメッセージは「主が共におられること」です。神様はマリアに福音を伝えにきました。この神様の福音のメッセージに「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29)マリアはただ両手を挙げて喜んだのではなく、「戸惑い」「考え込んだ」のでした。マリアにとって「主が共におられる」ということは素直に喜び、ただただ恵みとして受け入れるというよりも、戸惑いの言葉であったのです。
このときにマリアの心のうちには何があったのでしょうか。マリアの現実と「主が共におられる」という言葉はすぐに結びつくものではなかったのでしょう。マリアの思いは、むしろ「神様はどこにいるのだろう」「神様は自分にとってどのような方なのだろう」という不信感、不安、悩みがあったのではないでしょうか。
マリアの不安とはなんだったのでしょうか。もしかしたらこのときすでに、マリアは妊娠していたのかもしれません。またそれ以外にも、結婚するヨセフとの関係や、これから生きる人生の道筋などについて悩んでいたのかもしれません。とにかく、マリアの心のなかでは「主が共におられる」という言葉はすぐに理解できるもの、受け入れられるものではなかったのでしょう。マリアの現実と、神様の言葉には大きな隔たりがあった。だからこそマリアは戸惑い、考え込んだのでしょう。「主が共におられる」。わたしたちは、この言葉をどのようなときに受け入れられるのでしょうか。どのようなときに、神様の福音の御言葉として受け取ることができるのでしょうか。どのようなときに、「主が共におられる」ということを実感できるのでしょうか。
2 神様の選び
天使は言いました。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」(30-31)
神様からの恵みのしるしとして男の子、偉大な人となる方イエス様が生まれることを示されます。イエス様を身ごもると教えられるのです。神様はマリアと共にいることを、主イエスの出産から示されたのです。
このときのマリアの状況は・・まもなく結婚する女性であったということしかわかりません。マリアは、ヨセフのいいなずけとして、まもなく結婚する前でした。その中でのマリアの悩み、苦しみを考える時、結婚の後の生活についての不安などが考えられます。そこに神様の言葉「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。」(30-31)という言葉が与えられるのです。神様はこの言葉、この出来事によって、マリアに「共におられる方」として自らを示されたのです。
3 神にできないことは何一つない
マリアはこの告知に対して「どうして、そのようなことがありえましょう」(34)と答えます。神様のこの言葉は、マリアの不安や不信感を拭い去ることはできなかったのでしょう。
神様はこのように続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(35-37)神様は、この出来事は「聖霊による力である」と教えます。マリアは自分の力、自分の能力、また限界性を感じていたのでしょうか。自分に自信のないマリアだからこそ、「どうして、そのようなことがありえましょう」と答えたのかもしれません。
マリアにとって「主が共におられる」とはどのようなことだったのでしょうか。「主が共におられる」とは、むしろ自分が「神様と一緒にいなければならない」と思っていたのではないでしょうか。そんなときに伝えられたのは、「主が共におられる」という言葉、しかも「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」のです。わたしたちが主のもとに行くのではなく、主が来てくださる。神様は、イエス・キリストをもってこの世に来てくださったのです。わたしたちはこの出来事を聖霊によって受けるのです。神様はこの神様の一方的な恵みの出来事をエリサベトも子どもを身ごもっていることを教えられることによって、よりマリアとの現実に近づけるのです。「不妊の女」「老夫妻」として子どもを得ることが不可能とされていた家族が、子どもを得ることを「可能」とされていることを告げられたのです。「神にできないことは何一つない」のです。私たちが主に向かって歩むのではなく、神様である方がこの世にきてくださるのです。
4:告知から応えるまで
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38)マリアがこの言葉を言うのに、どれほどの時間があったのでしょうか。聖書はこのように言います。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)
私たちが弱く小さくなっていくときに、力がなくなって歩けなくなって、祈れなくなったときに、そこにイエス・キリストは来られるのです。わたしたちがいくのではなく、主イエスが私たちのところに来てくださるのです。だからこそ、私たちは弱くても嘆くことはないのです。そこにイエス様が必ずその分を補って共に歩んで下さる。私たちは、その弱さの分だけ、イエス・キリストを体感して、実感できるのです。
「主が共にいる」。それは私たちが自分の弱さに気づいたときに、感じていくことではないでしょうか。自分の弱さ、小ささ、足りなさを感じて、絶望感に襲われる中。「主が共におられる」という言葉はどれほど、私たちの心に響くのでしょうか。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。「神様にはできないことは何一つない」。神様は、その聖霊の恵みの導きをもって、私たちのところに来られたのです。わたしたち一人一人と共に歩まれる者となったのです。主は私たちの痛みを知り、私たちの弱さに寄り添ってくださる方として、この世に来られました。私たちは、この世に来て下さった「インマヌエル」なるイエス・キリスト、愛と恵みの神様に出会い従うのです。
私たちは今、このアドベントの時に、主イエス・キリストが共に生きて、私たちの弱さも欠点も、苦しみも痛みも、受け止めて下さっていることを確信して歩んでいきたいと思います。イエス・キリストが私たちと、共に歩んで下さっていることを確信して、「この身になりますように」と神様に応えて、神様に向かって歩んでいきましょう。
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