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2015.12.20 「今や、救いが近づいた!」 ローマの信徒への手紙13:11ー14

 今日は、クリスマス礼拝です。クリスマス・イブのキャンドルサービスは24日(木)夜7時からです。また、23日は、午後1時から子どもたちのクリスマスがあります。一連のクリスマス行事の中で、さあ、今朝の礼拝はどのようなメッセージを語ろうかと祈り求めてきました。クリスマスでは、マタイ福音書とルカ福音書からイエス様の誕生の物語のメッセージを聴くことが多いのだと思います。今から二千年前の出来事を思い起こすことは尊いことです。しかし、東福岡教会には、人生の折り返し地点を過ぎた方、また、人生のゴールが少し見えてきた人たちも多いのが現実でしょう。そこで、今年のクリスマスは、イエス様の誕生物語ではなく、クリスマスにお生まれになったイエス様の「将来」と私たちの「将来」について考えてみたいと思います。そこで、選んだテキストは、ローマ13:11~14です。

 イエス・キリストの使徒パウロはいまだ会ったことのないローマ在住のクリスチャンたちに向かって、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」と言います。

 

 今はどのような「時」であるのか?

 皆様は「今が、どのような時である」とお考えでしょうか?今年は2015年、日本社会が大きな舵を切った年でしょう。安保関連法案が、憲法の議論をすり抜けて、閣議決定され、さらに、強引な委員会、国会運営によって可決されました。様々な評価はあって良いのですが、日本社会が米国と共に戦争に参加できる国になり、一連のテロそして報復の空爆、さらに、報復の報復としてのテロという暴力の連鎖を生み出す中で、日本もテロの標的となってもおかしくない状況となりました。また、経済格差も広がっています。アベノミクスの名の下、一部の大企業の利益拡大と多くの貧しい者の格差で、特に、若者、そして、単身では生きにくい女性たちにしわ寄せが行っています。あるいは、超高齢社会で、いよいよ老々介護の大変さを少しずつ実感しています。認知症で行方不明者が年間1万人を突破していることは決して他人事ではありません。私たちが知っている今の時とはそのような時なのでしょうか?

 しかし、聖書が語っている「時」とは、そのような時ではありません。ここでは「カイロス」という言葉が用いられています。「カイロス」とは、神が定めた時です。過去から現在、そして未来へと、川のように流れて変化していく時間(クロノス)とは違います。パウロが知っており、ローマのキリスト者が知っており、私たちが知っている「時」(the Time)とは、神のみ子イエス・キリストが、その世界に来られ、私たち一人一人の傍らにおられ、私たちの悩み、孤独、苦しみを共に味わい尽くされた、十字架と復活の出来事において極まった、そのような時です。

 

 神のみ子がこの世界に到来された

 イエス様は、人を差別なく、平等に愛して下さる神を、だからこそ、ここに集う一人一人を愛される神を説教され、社会的に周辺に追いやられた人々と共に生きられ、彼らの傷を包み、癒されたのでした。しかし、十字架において、ローマ帝国の政治力と軍事力、そして、当時のユダヤ人の宗教的エリートたちによって殺されてしまいました。当時の男性の弟子たちもイエスを裏切り、イエスの元から逃げ去りました。イエス様の十字架の死は、まさに孤独な、そして、屈辱的な死でした。しかし、イエス様は、父なる神によってよみがえらされたのです。イエス様のよみがえりの信仰は、あのイエス様の孤独と屈辱と悲惨な、苦しみの死に、神ご自身が共におられたことを示しています。この世界の不条理に直面して、いったい、神はどこにおられるのかという問いたくなる現実に直面して、神はあの十字架のイエス様と共におられる、ここにおられる皆さん、お一人お一人と共におられるという信仰が、復活の信仰です。そして、そこから、十字架と復活の出来事から遡って、クリスマス物語が語られるのです。ベツレヘムの貧しい飼い葉桶に寝かされたあの幼な子は、この世界、この流れゆく時間のただ中に来られた神の子であられる。私たちは、あの貧しい「難民」夫婦の幼な子の中に、十字架のイエスの姿を、そして、かすかに輝く復活の栄光を、天使の歌声と東方の博士らの礼拝と彼らを導いた不思議な星の中に見るのです。

 

 歴史の秘義

 神のみ子がこの世に来られた。これは決して尋常のことではありません。それは信仰によって理解される歴史の秘密です。なぜなら、この世は変化の世の中であり、余りに過酷なこと、不条理なことが多いからです。神がこの世界に、この人間の歴史の中に来られることは人間の常識を超えたことです。新約聖書が書かれた時代のギリシヤの思想では、天地万物を創造された神は「デミウルゴス」と呼ばれ、「半人前の神」であると信じられていました。「デミ」とうのは小さなコーヒーカップを「デミタッセ」と言いますように、ちっぽけな神という意味です。あるいは、皆さんは「ものみの塔」、エホバの証人という宗教をご存知でしょう。こちらの都合もお構いなしに家庭を訪問し、小冊子を売り歩く人たちです。彼らはイエス様を「神の子」あるいは「神の使者」としては信じるのですが、イエス様が神と等しい本質を持ったお方であるとは、信じることができないのです。彼らが輸血を拒否することで子どもたちを見捨ててしまうことが問題になりましたが、この世において、輸血して穢れるより、あの世をあこがれる方がよい、なるべくこの世から離れて生活するという姿勢です。家庭生活もあまり重要でないという考え方です。これは仏教でも同じではないでしょうか。この世から解脱すること、世界の輪廻から解脱することが仏教の思想でしょう。このような考を理解できないことではありません。それほど、この世界は、移ろい易い、問題に満ちた、過酷な世界なのです。

 しかし、聖書は語ります。イエス・キリストにおいて神ご自身が、神の子としてこの世に来られ、人として生き抜かれ、孤独と理不尽さを味わい尽くされた。神ご自身がこの世界を抱き留められたというのです。パウロが知っており、ローマのクリスチャンが知っており、私たちが知っている「時」とは、このように、神のみ子が、来て下さった、そのような「時」なのです。

 

 夜はふけ、日が近づいている

 パウロはさらに続けます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。イエス様の復活は、十字架の意味を明らかにし、クリスマスの秘密を指し示すだけではありません。復活は、私たちの将来を照らし出します。希望の朝が明け染でいるのです。闇がどのように濃いとしても光が勝利をするのです。 ここで「覚めるべき時」の「時」は先ほどの時が the Timeであるのとは違い、岩波訳では「時節」と翻訳された言葉です。「ホーラ」は英語の「シーズン」あるいは「アワー」を意味する言葉です。そして素晴らしいことに、「眠りから覚める」の「覚める」は、「引き上げられる」という意味です。イエス様が、死者の中から「引き挙げられた」「よみがえらされた」という表現と全く同じ言葉です。復活の日、いのちと勝利の日、救いの日は、確実に一歩一歩近づいているのです。

 クリスマスがなぜ世界中でお祝いされるようになったのでしょうか。その理由の一つは、12月25日が12月22日あるいは23日の冬至の日に近いからでしょう。冬至は、夜が一番長い日です。闇が一番濃い日です。寒い時です。しかし、この日を境にして、日あるいは昼あるいは光が少しずつ長くなり、勝利していく希望の分岐点なのです。寒さ、暗さ、寂しさの中に、春の兆しが見えてくるのです。「夜は更け、日は近づいている」。一年一年繰り返す季節の中で、「永遠の夜明け」が「信仰に入ったころよりも近づいているのです」。

 テロの恐怖があり、お金と経済効率と人間の欲望がすべてのような闇の濃さの現実の中で、そして、少しずつ老いていく、日々の喪失体験の連続の中で、しかし、それにも勝って、「夜は更け、日は近づいている」のです。

 

 昼の光の中を歩もう

 パウロは、「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けよう。主イエス・キリストの義と愛の衣を身にまとって、陽の中を歩むように、品位をもって歩もう」と勧めています。何年か前に「品位」とか「品格」とかという言葉がはやりました。「国家の品格」とは「女の品格」とかという本も読まれました。あまりにも「品格」が欠落した現実だからでしょうか。ここで用いられているのは「ユースケモノス」という言葉です。「良いスキーム、良い姿、良いファッション」というような意味で、英語の「レガント」がぴったりします。貧しくとも、年老いても、病気持ちでも、ちょっと作りが不細工でも、エレガントな生き方があるのです。お金があり、美貌の持ち主であり、健康であっても、決して「エレガント」ではない人もあるのでしょうね。十字架でのイエスの孤独と苦しみ、そして、復活の輝きの出来事、その出来事から遡って、神ご自身がこの世に来て下さったクリスマスの出来事、そして、その出来事が完成する希望の光の中で、「欲望を満足させようとせず、感謝をもって、足るを学び、肉に心を用いない」生き方をしましょう。