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2015.12.23 「新しい正しさへ」 マタイによる福音書1:18ー25

1 マリアの沈黙

 マタイによる福音書ではヨセフの信仰、ルカによる福音書ではマリアの信仰を中心に焦点が当てられています。そのような二人の信仰から、私たちはイエス・キリストを見出します。イエス・キリスト、「神様の御子」の誕生を見るときに、私たちは光の当たらない人々に、光が当てられていったことを教えられるのです。

 今日の箇所、マタイで日の目をみないのはマリアです。マリアはガリラヤの平凡な、若く小さな娘です。マリアの名前はミリアム、「苦き没薬」という意味があると言われています。その名前は、まさにマリアの人生を象徴するものであったのではないでしょうか。マリアの両親については何も語られていません。ルターは「マリアは孤児であった」といいます。15、6才の弱く、小さい者に神様はキリストを与えられました。しかしそれはマリアにとっては「苦い没薬」という重い試練だったのかもしれません。

 神様は無名の者を用いていきます。大祭司やヘロデ王の娘ではありませんでした。神様の御子を宿す、その選びを受けたのは、社会的に何の力もない無名の者、小さく弱い者マリアでした。選ばれたマリアはマタイによる福音書において、沈黙を守っていました。ルカでは素晴らしい信仰の歌、信仰の祈りを献げます。しかしここでマリアは沈黙しています。マリアはただ沈黙する中でこそ、神様の与えられた試練を受け取っていったのではないでしょうか。沈黙が、ただ神様の御心を素直に受け取ったマリアの姿であったのです。

2 ヨセフの正しさ

 ヨセフはここにおいて焦点が当てられています。というより、むしろ、ヨセフはここにしか出てこない人物です。ダビデの子孫、正しい人、イエスの父、まじめな大工。しかし、ヨセフはイエス様の生涯の最初にだけ現れ、以後ほとんど出てくることがないのです。ヨセフほどにイエス様の人生において陰の人、日の当たらない人がいるでしょうか。しかし、このヨセフがマリアを支えたことは確かです。ヨセフの愛、勇気、信仰があって、マリアは生きたのでしょう。陰の者でありながら、ヨセフほどに大切な人間がいたのでしょうか。ヨセフはマリアを受け入れたのです。

 ヨセフがマリアを受け入れるまでには信仰の道のりがありました。ヨセフは「正しい人」(19)でありました。ヨセフは自分の正しさからマリアを離縁すること、ひそかに離れることを選ぼうとしたのです。これが、「正しい」ヨセフがマリアを愛した姿、最大の思いやりです。

 しかし、ヨセフの心に、「離縁されたマリアはどうなるだろう」「マリアと子どもはどうなるのだろう」という心がなくなることはなかったでしょう。ヨセフの「正しさ」は本当に「正しい」ものでしょうか。正しいはずのヨセフの心はどこかで揺さぶられていたのではないでしょうか。自分の正しい行いによって、「マリア、そしてその子どもはどうなるのだろうか・・・」と。

 人間の正しさ、良識が人間を滅ぼす時があるのではないでしょうか。「正しい」のことは「愛」でしょうか。「正しい」ことが「愛」の行為ではない、そのようなことが起こる時がないでしょうか。人間の思う正しさには、必ず欠けがあります。私たち人間の正しさ、良心、理念、そのようなものが一番人を傷つけるときがあります。愛する者を死に追いやる「正しさ」とは、何でしょうか。律法、掟、ルールの「正しさ」とはいったい何なのでしょうか。

 

3 恐れるな

 ヨセフの悩み、ヨセフの叫びの中で、神様は応えてくださいます。神様はヨセフが考えるなかで応えてくださいました。主の使いはヨセフに「恐れるな」と語ります。神学者ボンヘッファーは「自分自身の善と悪とを、つまり自分の心を断念している人、そのようにざんげしてイエスによりたのむ人、その人の心はイエスの御言によって清いのである」と言いました。わたしたちは、正しさの基準をどこにおいているでしょうか。善と悪をどこで見分けるのでしょうか。正しさの基準が自分の心にある時、それは他者を断罪する時があります。そこに本当の救いがあるでしょうか。神様の「恐れるな」という御言葉は、「正しい者」であったヨセフの「正しさ」を打ち破るのです。

 ヨセフは自分の正しさから、神様の導く道に飛び込むのです。自分が持つ律法、正しさ、正義から、神様の御言葉にすべてを委ねることを、神様の新しい正しさに飛び込むことを、決断したのです。

 

4 インマヌエル

 インマヌエル預言。それはイザヤ7:14の引用です。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)

 イザヤの預言は、当時の王様アハズ王に対しての言葉です。神様が共にいてくださるという恵みの言葉でした。しかしアハズは自分の正しさを貫いたのでした。アッシリアと結び、危機を乗り越えようとしたのです。最後までアハズは神様の御言葉を受け取らなかったのです。アハズは一度、危機を乗り越えアッシリアこそが頼りと信じます。しかしこのことが破滅、破たんの始まりとなりました。

 ヨセフは人間的な「正しさ」「断罪」「突き放す」「裁き」、そして「罪を数える」「悔い改め」から、神様の新しい「正しさ」、それは「寄り添い」「罪を引き受ける」「弁護」これらに表される「愛」に飛び込んだのです。「愛」の中心に神様、イエス・キリストがいてくださいます。「愛」を造り、与える方は神様です。神様がイエス・キリストを通して、「インマヌエル」を示してくださったのです。今、神様はわたしたちと共にいてくださるのです。私たちの人生のすべてに寄り添い、引き受けて、愛を注ぎ続けてくださっているのです。私たちは、私たちと共にいてくださる神様、インマヌエルなる主に飛び込んでいきたいと思います。