1: 現代の人間関係
今日の箇所は、「互いに重荷を担う」ということがテーマとなっている箇所です。私たちがお互いに痛みを分かち合い、重荷を担う。このことは現代を生きる私たちがもう一度覚えて、大切にしなければならないことではないでしょうか。
今、私たちは、超個人主義といわれる社会を生きています。個人主義とは、もともとは人間一人の大切さ、個人の権利、自由を主張するものでした。人間は一人ひとりが大切な一人であり、一人ひとりの思い、考え方があるのです。幼稚園の教育精神にも「ひとりひとりを大切に」という言葉があります。私たちは、それぞれ一人ひとり違う人間であり、その違いを喜びたいと思うのです。しかし現在では、個人の大切さを主張するということが、いつの間にか、自分のわがままを言い通す言葉になってしまってきている。自分は自分。自分は好きなように生きていく。
先日、幼稚園で講演会をもちました。そこでは「お弁当の大切さ」を学びましたが、そのときのお話の中に、「自分は自分」「自分の家庭は、自分の家庭」。「どんな食事をしていても勝手でしょ」「だれかに指図されたくなどない」という人が増えてきているということでした。
私たちは「個人」を大切にするために、「自分は自分である」。そのような言葉を使って「自分のわがまま」だけを主張するようになっている。そのかわり、ほかの誰とも関わらない。自分の問題には干渉されたくないし、他者の誰の問題にも干渉しない。つまり自分のことだけ考える。そのような社会となってきているのではないでしょうか。「お互いに重荷を担う」ということは、他者の痛みを知ることです。そして一緒に生きることです。現代において、こんなことはありえない、このような考え自体が古臭いと言われるかもしれません。自分のプライバシーが守られることを主張し、また他者のプライバシーを侵害しないようにと考える。その中で、他者の痛みや問題など知ることもできないし、もはや知りたいとも思っていない。自分のことは自分でする。自分の責任で生きていく。他人の生き方なんて関係ない。そのような社会を象徴した言葉が「自己責任」や「孤独死」という言葉です。今、人間と人間の関係は断絶されています。インターネットで情報があふれ、なんでも知ることができる。しかし、隣で生きる人の名前も知らない。いっぱい情報はあるのだけれど、そこから自分に必要な情報だけを得ている。不必要な情報には耳をふさいで、目をそらしている。それが私たちの生きている社会ではないでしょうか。
聖書は「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち返らせなさい」(1)と言います。私たちは、足を踏み外した人を見てどのように思うでしょうか。テロを行う人々、そのような人をなりふり構わず爆撃していく世界、その悲劇から逃げ出す難民を受け入れない社会。私たちは、今、社会で起きている悲しい出来事を見て、どのように思うのでしょうか。
「なぜ、このようなことを行うのだろう」「こんな悲惨なことはしてはいけないのに」とは思っていても、「この人たちのために祈ろう」と思っているでしょうか。テロリストが正しい道を知るように、爆撃する社会が、力では平和は訪れないことを知り、正しい平和への道を歩き出すように、祈っているでしょうか。学校でいじめが起こった時、いじめられた人の気持ちを考えることはありますが、いじめる人々のことを考えることはあまりないのです。私たちはあまり「足を踏み外した人」に目を向けないのかもしれません。そしてある意味、それが、普通の人間的考えなのかもしれません。
しかし、だからこそ聖書は、「足を踏み外した人」に目を向けなさい、そのような人のことを自分のこととして担いなさいと、私たちにメッセージを送っているのです。
2: 聖書の教える人間関係
聖書は「互いに重荷を担いなさい。」(2)と教えます。それは、道を踏み外した者のところに行き、柔和な心、つまり「愛」の心をもって他者と共に生きることです。共に痛みを分かち合い、苦しみを一緒に担うことなのです。「互いに重荷を担いなさい」。誰かの重荷を担うこと、誰かのことを思うことは力のいることです。できれば自分だけを考えていたい。自分のためだけに生きていたい。そこから一歩踏み出して、誰かのことを考えることは、簡単なことではないでしょう。自分のために生きているところから、一歩踏み出すには、それなりの思いと力が必要なのです。私たちが互いに重荷を担うということは。他者の痛みを知り、相手の思いを聞くことであり、同時に自分の弱さや欠点を知ってもらうことであります。
「聞く」ということは、大切な奉仕の一つです。他者の想いを「聞く」。他者の痛みを聞いていくのです。「聞く」ことは、話してくれる人がいなければできないことでもあります。心を開いて話してくれなければ「聞く」ことはできない。心と心がつながり、お互いが話をし、お互いが話を聞く。そのような関係を作らなければ、「聞く」ことはできないのです。
教会には附属の幼稚園がある私たちの教会ですが・・・幼稚園では、先生たちにとっては子どもの声を聞くことがとても大切な仕事の一つです。幼稚園ではいろいろなこと、基本的な生活習慣や、遊び。またコミュニケーションの取り方、相手のことを思う心の大切さなどを教えるのです。教えるためにはまず子どもの声を聞かなくてはなりません。小さな子どもたちです。上手に自分の思いを言葉で言うことはなかなかできません。それでもいろいろと工夫して子どもの声を聞いていくのです。子どもたちは、自分の思いを言葉にして伝えることは上手ではないのですが、素直に伝えてきます。
それに比べると、大人になればなるほど、わたしたちは自分の本当の思いを伝えることができなくなっていないでしょうか。言葉に表すことは上手になっても、本当に思っていることを素直に言葉にできない。自分のプライドや相手を思う気持など、いろいろなことが重なって、自分の痛みや本当の苦しみ、つまり本音を言うことができなくなっていないでしょうか。
そんな私たちがお互いの心の素直な声を聞く。そのために一歩踏み出していくことは、新しい一歩を踏み出すということは、それほど簡単なことではないのです。共に重荷を担うこと。そんなことが私たちにできるのでしょうか。
3: キリストからくる
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2)
キリストの律法。それはイエス・キリストによって示された、神様の教える生きる道です。神様は、イエス・キリストを通して、私たちが歩むべき道を示されました。主イエス・キリストは、この世に来られたのです。苦しんでいる人の隣を歩くため、痛みを持っている人の痛みを担うために、この世に来られました。しかし、そのようなイエス・キリストを、イエス様の弟子、12弟子のひとりイスカリオテのユダがイエス様を裏切り、12弟子の筆頭ともいえるペトロはイエス様を「知らない」「関係ない」と言って、キリストを十字架につけていったのです。「イエス様とは関係ない」。これまでイエス様のお話を一番身近なところで聞いていた弟子たちが「イエス様を知らない」「関係ない」と裏切ったのです。
イエス・キリストの十字架は、神様が私たちの痛みを知るために起こされた決断です。まったくの他者として、足を踏み外していく人間を、愛していこうと。そのような人間の重荷を担うことを決心された出来事なのです。神様は人間を愛されました。私たちの心の声に耳を傾けてくださるのです。私たちは神様に愛されているのです。私たちの重荷はすでにキリストが担ってくださった。私たちの痛みはすでにイエス・キリストが担ってくださっているのです。私たちは、重荷を一人で担うのではなく、イエス・キリストが共に担ってくださっている。イエス・キリストが、私たちのために、祈って、慰め、一緒に歩いてくださるのです。私たちは愛されている。神様に愛されているのです。私たちは、この神様の愛を基として、他者と共に生きる一歩を踏み出すのです。イエス・キリストが私たちの心に耳を傾けてくださっている。わたしたちは孤独ではなく、キリストの愛に包まれているのです。だからこそ私たちは、お互いに、誰かのために耳を傾け、話を聞き、関係を作る。わたしたちはキリストの愛を喜び、一歩前に踏み出す力と思いを得るのです。
4: 信仰者であり続けるために
「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」(5-6)
この言葉をルターはこのように言い表しました。「わたしたちの中に何かがあるなら、それはわたしたち自身のものではない。それは神の贈り物である。しかし、もしそれが神の贈り物であるなら、それは全く、その人が愛、つまりキリストの掟に負っている、負い目である。そして、もしそれが愛に対する負い目であるならば、わたしたちはそれをもって自分自身にではなく、他人に仕えなければならない。わたしの学識はわたし自身のものではない。それは無学な人たちのものである。それはわたしが彼らに負っている負い目である。わたしの慈善も、わたし自身のものではない。それは肉の罪を犯した人々のものである。・・・わたしの知恵は愚かな人々のものである。わたしの力は圧迫されている人々のものである。わたしの富は貧しい人々のものである。わたしの義は罪人のものである。・・・なぜならそれがキリストがわたしたちのためになしたことであるからである。」
わたしたちは神様から贈り物をいただいたのです。わたしたちの知識も、知恵も、力も、財産も、すべて神様から与えられ、あずけられたのなのです。私たちは、キリストによる愛をいただいきました。そして「生きる」という希望をいただいているのです。わたしたちは神様によって与えられたもの、すべてを神様のものとして受け取り、お預かりするのです。それが、私たちがキリストによる愛をいただき、その愛を担うということです。私たちには生きる希望、そして生きる目的、生きるための道命があります。それはキリストによる愛をいただくと共に、それを使命として受け取るということです。
私たちはすでに、キリストによって、重荷を担っていただいたのです。私たちの心を知っていただいたのです。だからこそ、私たちには、キリストが共にいてくださるという恵みを、喜び、伝える責任がある。神様の愛の大きさを知った喜びを伝える使命を受けているのです。神様は、イエス・キリストを通して、私たちを愛し、共に重荷を担うものとなってくださいました。私たちはこのキリストの愛を受け取る者として、この愛を表して生きていきたいと思います。
聖書は言います。
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(8-10)
キリストの愛に生きること。それは霊に蒔く者となることです。そしてそれは「互いの重荷を担う」ということです。私たちが生きる道はキリストが自らをもって示されました。私たちはこのキリストを土台として、キリストの愛に忠実に生きていきたいと思います。
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