創世記2~3章を5回にわたり読みました。今朝は3章の最後の部分です。エデンの園にいたアダムとエバは園から出て、旅立ちをします。皆さんは、どこに向かって、どのような同伴者と人生の旅をしているでしょうか?
1.エバと名付ける
アダムは共に連れ添って生きる女性を「「エバ」(「いのち」)と名付けます。人は、出会うものに名をつけることによって、その存在の本質を知り、把握しますが、それはどこか、支配する、コントロールすることに繋がります。親はどのような思いで子どもに名を付けるのでしょう。夫婦別姓の問題、かつて、韓国の人たちに、「創氏改名」と言って日本名を名乗らせたことがいかに酷いことであったのかも記憶しておくべきです。
2.皮の着物
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(21節)。賢くなった人間は、相手と自分の現実を知って恥ずかしくて、お互いを直視できなくなり、いちじくの葉で身を隠します。しかし、いちじくでは何とも心もとない。陽が照ったら枯れてしまう。そこで、主なる神が皮の着物を作って彼らを覆い隠してあげたというのです。皮の着物と言えば、そこで動物の「いのち」が犠牲にされている、神の痛みの行為です。ガラテヤ3:26~29では、「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」とあります。バプテスマを受けて、クリスチャンになった人は、キリストの義と愛の衣を着さられているというのです。生ける真の神、聖であり、義である神の前に立つことは実に、怖しいことです。しかし、私たちはイエス様というお方に隠くまっていただいて神の前に立つことができるのです。
3.園から追い出された人間
「人は我々のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」。人は、エデンの園から追放されたものとして、土を耕すものとして生きる、ここに、使命があるのです。人は失しなった、なつかしい過去には決して戻れないのです。私たちは過去の自分を踏まえて、少しでも、世界を耕し、世界を旅するもととして出立あるのみです。しかし、主なる神から与えられた皮の着物に護られ、イエス・キリストの愛と義の衣を着せられ、護られた者として、それぞれの巡礼の旅に旅立つのです。(松見 俊)
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