今まで私たちは、創世記2~3章を5回にわたり読んできました。古代の信仰者たちの世界観、人間観の豊かさに触れてきましたが、今朝は3章の最後の部分です。
エデンの園にいたアダムとエバは園から出て、一つの旅立ちをします。人生は「旅」あるいは「巡礼」に譬えられます。皆さんは、どこに向かって、何に向かって、どのような同伴者と人生の旅をしているでしょうか?
創世記3章19節と20節の間は一行あいておりまして、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」という文章で始まっています。
1.エバと名付ける
アダムという言葉は、もともとは「土」(アダマ)から造られた人を意味していました。ですから、男性も女性も「土」から造られたという意味で、みな「アダム」であるわけです。この「人」という言葉をどこから「アダム」という男性の名前に翻訳するかは学者の意見が分かれるところです。新共同訳は、3章8節以降、「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた」と8節以降から「人」を「アダム」と翻訳しています。ちなみに、口語訳では、一貫して「アダム」を「人」と翻訳していますので、アダムという名は4章の25節から登場します。
アダムは共に連れ添って生きる女性を「「エバ」と名付けました。「いのち」という意味だそうです。人は、出会うものすべてに名を付けるものであることは、創世記2:19~20で学びました。人は名をつけることによって、その存在の本質を知り、把握し、それをどこか、支配する、コントロールすることに繋がることを考えてみました。最近は、きらきらする、美しい女性の名が多くなりました。親がどのような気持ちで名を付けるのかは分かりませんが、おばあさんになったらちょっと恥ずかしいような名が多いですね。男性の名も流行の「音」があり、「ユウキ」は人気の名ですが、その音に実にさまざまな漢字を当てることが多くなりました。あるいは、昨今、夫婦別姓が話題になっています。女性が結婚してほとんど一方的に、夫の姓を名乗ることが良いのかどうか考えてみるべきでしょう。最高裁判所は、結婚の際、どちらかの姓を選択する自由があるのだから、夫の姓を名乗ることは憲法違反ではないということです。しかし、名を付けるということが、本質を理解し、把握し、コントロールすることに繋がることはしっかりと見ておきたいものです。そのような意味でも、かつて、韓国の人たちに、「創氏改名」と言って日本名を名乗らせたことがいかに酷いことであったのかも記憶しておくべきでしょう。
2.皮の着物
21節に面白いことが書かれています。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。創世記3:7には、知識・知恵を得て、賢くなった人間は、恥ずかしくて、相手と自分の現実を知ってお互いを直視できなくなり、神と隣人から身を隠す姿を描いています。いちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆った、とありました。しかし、いちじくでは何とも心もとない。陽が照ったら枯れてしまう。そこで、主なる神が皮の着物を作って着せた、彼らを覆い隠してあげたというのです。皮の着物と言えば、そこで動物の「いのち」が犠牲にされているわけです。神ご自身が創造された動物のいのちをお取になるという事実の中に、自らの矛盾に耐えられて、自ら痛まれて、愛する被造物を犠牲にされたことが背後にあるのだと思います。このような思想・信仰が新約聖書にも生きています。ガラテヤ3:26~29では、「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。バプテスマを受けて、クリスチャンになった人は毛皮ではなく、キリストの義と愛の衣を着さられているというのです。ありがたいことです。生ける真の神、聖であり、義である神の前に立つことは実に、怖ろしいことです。しかし、私たちはイエス様というお方に隠くまっていただいて神の前に立つことができるのです。ここに安心・平安があります。ですから、私たちが夫や妻、親や子どもたち、あるいは教会に共に生きる人々を見るときに、それぞれキリストの衣をまとった者として見なくてはなりません。Iペトロ4:8には、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」とあります。私たちは、正義の味方よろしく、人の問題点を暴露するのでなく、覆い隠してあげる、ある時は、見ないであげることも大切であり、それが、成熟した大人の振る舞いなのです。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」とはなんと知恵のある、暖かい言葉でしょうか。
3.園から追い出された人間
聖書は続けて言います。「人は我々のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」。この言葉は、ちょっと聞くと、意地の悪い神、過酷な処罰のように聞こえます。しかし、不完全で、問題を抱えた私たち、そんな人間が永遠に生きたら、それこそ大問題ではないでしょうか。死ねないことも恐ろしいことです。仏教でもこのような永遠の輪廻、運命から救われることを説いているのではないでしょうか。しかし、悟りを開いてこの世の過酷な現実から逃げるのではなく、前に向かって進むのです。むしろ、エデンの園から追放されたものとして、土を耕すものとして生きる、ここに、人間の使命があるのです。この世界を耕し、守ること、それが私たちの使命なのです。英国の詩人ジョン・ミルトンの詩に「パラダイス ロスト」(『失楽園』)という詩があります。私の持っている本では、109頁にわたるちょっと手に負えない詩です。そこには、楽園を失い生きる人間の葛藤と痛みと喜びが謳われています。彼の詩には、「パラダイス リゲイン(『復楽園』)というものもあるのですが、あまり評判は良くありません。人は失しなった、なつかしい過去には決して戻れない。母親のお腹の中にもどって、母親との一体感を取り戻したいと願います。しかし、それは精神的な「退行現象」、「赤ちゃんがえり」の問題であり、人の精神にとって大きな問題なのです。私たちは過去の自分を踏まえて、少しでも、世界を耕し、世界を旅するもととして出立あるのみです。救い、完成は将来にあるのです
4.ケルビムときらめく剣の炎
そのような退行現象を絶つために、「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を護るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。ケルビムというのは聖なる神を護る天使たちです。神はご自分を護ろうとする意地悪な神なのでしょうか? そうではありません。新約聖書のヨハネの黙示録2:7には、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」とあります。私たちには、イエス・キリストの復活に与り、自己中心的である自分と、そして私の人間関係性が癒され、完成される希望が与えられているのです。前方には、そのような希望、命の木の実に与る希望があるのです。そうであれば、このような希望にあって、少々、あるいは大いに過酷な現実にあるかも知れませんが、主なる神から与えられた皮の着物に護られ、いやイエス・キリストの愛と義の衣を着せられ、護られた者として、それぞれの巡礼の旅に旅立ちましょう。
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