1: つまずき
今日の箇所で、イエス様は「あなたがたは皆、わたしにつまずく」(27)と言います。それに対して、弟子の筆頭格である、ペトロは「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29)と言いました。このときペトロの心のなかでは、うそをついている気はなかったでしょう。ペトロは確かに「自分はイエス様から離れることはない」「どんな恐怖、恐れ、それが死であっても、自分だけはついていく」と信じていたのだと思います。しかし、ペトロが信じていたのは自分自身の強い思いです。自分はだれよりもイエス様に従おうとしている。自分はイエス様から離れることはない。
ペトロのこの心は、すでに「つまずいた心」であったのかもしれません。「つまずき」という言葉には「罠にかかる」という意味があります。ペトロは罠にかかっていたのです。それは、自分の力、自分の強さを信じるという罠です。ペトロは「たとえみんながつまずいても・・・わたしはつまずかない」、自分はほかの人とは違う。どんなことがあってもイエス様を信じる心、強い信仰を持っているんだと思っていたのでしょう。そこにすでに罠にかかったペトロの姿があったのです。
聖書ではこのような言葉があります。ガラテヤ6:3-4「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。」
わたしたちは自分自身をどのように見ているでしょうか。わたしたちは、「自分は特別なんだ。だれよりも優れている。」と思っているでしょうか。それとも「自分はそれほど大したことはない。それでもまあまあそれなりにできることもある。」そのように感じているでしょうか。それとも「自分には何のとりえもない。できることなんて何もない。自分には生きる価値もないのだ」と思っているでしょうか。これらは、どちらも、心の中心に自分を置いているという罠にかかった状態です。
このときのペトロは「自分は特別で、だれよりも優れている。だからこそ、自分には大きな価値がある」と信じていたのでしょう。しかし、神様の価値観は、私たちが他人とくらべて得ることができる、「生きている価値」「生きる意味」とはまったく違うものなのです。私たちが持つ、ちょっとした能力、ちょっとした才能、だれかよりもちょっとできるというもの。それらはとてもすばらしい神様から与えられた生きる力でしょう。そして、そのようなものを含めて、神様はもっともっと大切で、すばらしいものを私たちにくださっているのです。
私たちは神様に愛されて創られた者です。私たちは神様に似せて造られた者です。神様が私たちに息を吹き込み、命を与えられ、日々神様の見守りのうちに生かされているのです。どのような人間も、神様の愛のうちに生かされている。これはどれほど素晴らしいことでしょうか。「わたしたちは愛されている。」「神様が必要とされている。」「すべての者の存在は、存在する中で、すでに価値がある。」「何ものとも比べることはない。」神様は私たちの存在を喜んでくださっているのです。どのような者、何もできないとされる者でも、また、とても優れた能力を持つものでも、どのような者も、わたしたちには神様に愛されているという意味で、生きる価値、存在する意味があるのです。
ペトロの姿は、このことを忘れてしまった人間の姿です。ペトロは自分の価値は、自分の中にあると信じているのです。イエス様を裏切り事など決してないという自信。その決意の大きさ。そのような自分の中にある思いを信じているのです。それはすでに罠にかかった者の姿。つまり誘惑によって罪に陥った人間の姿です。ペトロは自分の力や能力、信仰心の強さを見て、そこに価値があると考えていたのでしょう。
私たちの生きる、社会の価値観はペトロと同様、間違った人間の価値観に包まれています。何かができる時、そのことが喜ばれ、何もできないときに、その存在すら否定される。そのような価値観が社会にはあるのです。何か、能力を身に着けること、努力をすることによって得る力は大切な神様からの恵みです。しかし、それがすべて自分だけの力によるものだと信じること。そして、何もできないように見える人のことを否定すること。これは神様の価値観から離れたものです。神様はすべての者を愛してくださっているのです。わたしたちは「自分は何もできない」と悲観的になる必要もないし、「なんでもできる」と傲慢になることもできないのです。そのような思いはわたしたちをつまずかせる、罠にかける誘惑です。わたしたちを神様から引き離そうとする罪への誘いなのです。これはすべて人間的価値観であり、神様の愛を中心とした価値観ではないのです。
2: つまずきからの解放
イエス様はこのように言います。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(14:27~28)
この世には、神様から私たちを引き離そうとする罠がたくさんあります。わたしたちのうちにはその誘惑から逃げ出す力はあっても、本当の意味で打ち勝つ力はない。誘惑から離れて生きることはできないのです。私たちが誘惑に打ち勝つためには、神様の愛を知る必要があるのです。そして、その神様の愛を示されるために、イエス・キリストは「打たれた」のです。聖書は「羊飼いを打つ」と言います。ここでいう「羊飼い」とはイエス様のことです。イエス・キリストは、神様に打たれたのです。それは私たちが本当の意味で誘惑に打ち勝つ力、「愛」を得るためです。キリストは、私たちがこの世で、神様の愛に従い生きるために打たれたのです。つまり十字架の上で死なれたのです。十字架による死は、弟子たちにとっては絶望であり、すべてをむなしくさせる出来事であったでしょう。これまで信じてついてきたイエス様が死んでしまったのです。人間的にみて、敗北であり、失敗です。
しかし、イエス・キリストの言葉には続きがあります。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(28)とイエス様は言われました。イエス様の十字架は、そこで終わりではない。そこから新しく命を芽生えさせるための死だと言われるのです。十字架は終わりではない。むしろ本当の命を得るための出来事でした。キリストは復活されます。この復活は十字架を前提とした、死があってなされた出来事です。イエス・キリストは復活されたのです。それは新しい命、新しい道を示す出来事です。
わたしたちは、誘惑よって罪に陥る者です。つまり神様を忘れてしまうのです。いつのまにか自分が神様になりかわっていることがよくあるのです。
現在、私たちの住む社会では、経済の格差が広がるばかりです。スーパーではプレミアムなもの、高価なものがよく売れていると言います。それと同時に、食事の回数を減らさなくてはならない、食べる物を得ることにも困っているほどの貧困に陥っている人がいるのです。経済的に裕福な人々は、大きな誘惑にさらされています。不自由なく生きているということは、それだけ神様の必要性を忘れてしまう誘惑が大きくなっているのです。神様を必要としなくなる。その人の心には、もはや神様の入るところはなくなってしまっている。本当は、すべてが神様の恵みによるものだということを忘れてしまうのです。
神様は全能なる方です。しかし、入る隙間もない心のうちに入ることはできません。神様を必要としない者の心の扉が閉められているときに、神様が入ることはないのです。また、同時に、貧困に陥っている者、希望を見失った者にも同様の誘惑があります。神様の恵みはもはや尽きていると感じてしまうのです。生きる希望が見えない。「自分には生きている意味があるのだろうか」と思う。そこにも大きな誘惑があるのです。
日本では自ら命を絶つ人は年間3万人と言われています。それほど私たちの住む現実は疲弊しているのでしょう。人間が自死を選んでいく理由はいろいろあります。「病気のこと」「収入を失い生きるすべを見失ったこと」「家庭の崩壊」「学校、会社での人間関係」「地位を失った喪失感」など様々な理由です。多くの方々が希望を失い亡くなられているのです。実際に、私が一番最初に行った葬儀は、教会員の方の家族の自死によるものでした。あのときの心の痛みは忘れることはできません。地位や経済力により頼む者も、また苦しみによって希望を見失う者も、もとをたどれば、同じ誘惑、「神様を忘れる」ということ、「神様に愛されている」という恵みを忘れてしまうという誘惑です。 わたしたちは「神様に愛されている」のです。
イエス・キリストはつまずきでは終わらない、復活という出来事を示されます。主は「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28)と言われました。イエス様は、私たちの先頭に立って道を開かれるのです。新しい命の道を開かれたのです。信仰とは、人間的希望を見失った中で、そこが終わりではないということ、神様が私たちに与えてくださった本当の希望を見つけていくことです。わたしたちはつまずきます。しかしそこが終わりではない。正しい道からは離れることもあるが、そこで終わりなのではないのです。信仰はそこから神様に立ち返ること。人間的価値観によって誘惑に陥り、神様から離れていく者が、神様の大きな愛の恵みのうちに立ち返ることです。イエス様は、そのために十字架にかかり、そしてそのために、復活されました。わたしたちの先頭にたって、苦しみ、そして先頭にたって、新しい命を受けられた。そして私たちを新しい命へと導いてくださっているのです。
3: ペトロの無理解
「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(28)このイエス様の言葉が語られた時、ペトロは自分の強さを主張しました。ペトロはイエス様の言葉を全く理解していなかったのです。ペトロが本当の神様の愛に気が付くのには、もう少し時間がかかりました。ペトロは、目の前に十字架を見て、キリストの復活に触れた時に、信仰を与えられたのです。イエス様は、ペトロに「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(30)と言われました。事実、ペトロはイエス様が捕えられ、十字架の道をたどる中、イエス様を「知らない」「関係ない」と言い、最後には「誓って、知らない」と言うのです。「知らない」という言葉は、「関係がない」、自分と関係を持つ人ではないということです。ペトロは、イエス様とは関係がない、そして関係など必要ない、イエス様と自分は無関係だと言ったのです。その時、ペトロは、「自分は死んでもついていく」「自分だけは、イエス様から離れることはない」と言っていたはずの自分が、イエス様を「知らない」と言ったこと。その自分の弱さを教えられるのです。自分の力では、本当に神様に従うことはできない。自分の能力や、思いだけではどれだけ死を覚悟したとしても、それが本当に神様に従うことにはつながらないことを知ったのです。 ペトロは確かに、自分の思いに頼るという誘惑に陥っていたのです。誘惑に陥って、神様から離れた者となったのです。
しかし、そこからペトロは新しく立ち上がります。どのような自分でも、神様が愛してくださっているということ。主イエスが先に立ち、先頭にたって、私たちに命の道を開いてくださっている言葉に頼る者とされていくのです。自分の弱さを知ったペトロです。
ウイリアム・バークレーという神学者はこのように言いました。「疑うものを助けるには、自分も疑った経験がなければならない。誘惑されている者を助けるには、誘惑された経験がなければならない。悲しむ者を助けるには、自分も悲しまなければならない。」「愛する息子を失った母は、柔和になりました。そこに子どもを失った母がくるようになったのも、そのためです。」「人々を慰める力は、高い代価を支払わずには得られない。」
神様はイエス・キリストの十字架の死をもって、私たちの悲しみ、苦しみ、誘惑に打ち勝つことのできない自己嫌悪という、私たちの心の痛みをとの心を知ってくださった。キリストの十字架は、私たちの弱さを受け止めてくださり、慰めを与えてくださるのです。どれほど自分が離れても、イエス・キリストは離されてはいない。どれほど差し出された手を振り払っても、その手は、何度でも差し出される。その愛のうちに、ペトロは新しく立ち上がったのです。十字架のうちに死なれ、そして復活された方。イエス・キリストを土台とした道、開かれた命の道を歩き出すのです。
4: 主イエスの愛のみによる関係
ペトロはイエス様など知らない、関係ないと言いました。しかし、イエス・キリストは、そのようなペトロをも離さず愛し続けてくださっていました。神様とペトロの関係は、十字架の主イエス・キリストによってつながれていたのです。ペトロは十字架のイエス・キリストに出会い、復活という命の出来事によって、固く閉ざしていた心を開いていくのです。ペトロは心のうちにイエス・キリストを受け入れたのです。神様は私たち一人一人の心の扉を叩かれているのです。何度も何度も。キリストが私たちを離すことはないのです。十字架によって打たれ、傷ついた方、そして復活によって、私たちの命の先頭を歩まれる方が、私たちの心をとらえていて、癒してくださるのです。私たちはそこから逃げ出すことはできません。私たちが神様から離れようと思っても、逃げ出そうと思っても、どこまでも神様の手は、私たちをとらえておられる。神様の愛は私たちを離すことはないのです。
私たちは閉ざした心を開き、そこから一歩進みだすことによって神様に出会っていきたいと思います。神様が、差し出され続けている手に、私たちが手を出すのです。私たちは、この神様に目を向け、手を差しだし、新しい道に進んでいきたいと思います。神様は主イエス・キリストの十字架によって、私たちを愛してくださいました。そしてその復活によって、新しい命を注がれているのです。
キリストは、私たちの先頭に立って、その道を示してくださいました。この神様の愛を受け取り、心を開いていきましょう。そこにはあふれるほどの愛と希望が、注がれます。神様は私たちを離すことはない。そしてその愛は尽きることはないのです。私たちは、この希望の道を歩みだしましょう。
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