NHK朝連ドラで「あさが来た」というのをやっています。白岡あさという女性が主人公です。実際は広岡浅子という名で京都の三井家の出身です。明治初期の女性実業家で日本女子大学の創立にも関わります。60歳過ぎて病気をし、キリスト者となったようです。彼女がキリスト者となったことは「ビックリ・ポン」ですが、なんとなくうなずけます。目標めざしてまっしぐらに進むところが爽快・痛快です。新教出版社から『人を恐れず、天を仰いで』という本がキリスト者となった浅子が書いたものとして出版されています。聖書にもビックリ・ポンな女性が登場します。レプトン銅貨2枚を捧げた貧しいやもめです。彼女は人と比較して落ち込むようなことなく、天を仰いで彼女の「生活費を全部」(43節)神に捧げたのです。
1.教会の教え:「十分の一」献金
旧約聖書には、当時の宗教的・祭司制度を支えるため、十分の一を捧げるように命じられています。イエス様は、「それもしなければならないが」と少々歯切れの悪い仕方で語られています。収入の十分の一の献金が決まりとして命じられているとは言えないでしょう。
2.すべては神から与えられ、すべでは神のものである
新約聖書において明確に命じられていることは、私たちの人格を含めたすべてのものが神のものであり、主イエスは命を懸けて私たちを愛して下さったことです。十字架にかけられ、そのいのちをもって私たちを愛して下さったお方に対して、十分の十、私たち「すべて」を捧げて生きることです。
3.主は「見ていて下さる」
主は、エルサレム神殿の献金箱に向かって座り、人々が献金するのを見ておられました。ひとりの貧しいやもめがきて、レプトン銅貨二枚を入れます。レプトンはギリシャの最も小さくて薄い貨幣です。日本で言えば、10円玉2つというところでしょう。すると、イエス様は、このやもめの信仰を喜ばれたのです。しかし、主イエスが「見ていて下さる」とは、同時になんと恐るべきことでしょうか。神への真の感謝のない、砕かれた心のない十分の一献金をイエス様は喜ばれないとは、恐るべきことです。
4.痛みの中から
金持ちは「有り余る中から」献金し、やもめは「乏しい中から」献金したというのです。ここで「バイオ」という言葉が用いられています。それは生活費であり、「生活」であり、実は、「いのち」そのものでした。彼女はこのことを通して、自分の人生を支えておられるのは神であることを告白し、神の憐れみの中に自らを委ねたのです。それはまさに彼女の生き方を根本から問うものでした。わたしたちは痛みのある献金、自分の生き方を問われるだけの献金をしましょう。(松見 俊)
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