1: イザヤ書
今日の聖書の箇所はイザヤ書です。まずイザヤ書について説明をしたいと思います。聖書のイザヤ書の、大きな流れ、その中心的内容は、イスラエルの民がバビロンにつれて行かれ、破壊し尽くされたユダとエルサレムに対しての、神様の回復の約束です。神様はイスラエルに新しい創造と贖いの契約を与えてくださるのです。
イザヤ書はイスラエルにとってとても厳しい状況のときでした。いわゆるバビロン捕囚という、バビロンという国にイスラエルは破壊され、すべてが取り壊されたうえに、土地が奪われ、人々が捕虜として連れて行かれたという悲しみの出来事が起こった時なのです。イザヤ書は、そのようなバビロン捕囚、暗闇のうちに記された書物です。
イスラエルの人々は、バビロン捕囚という大きな困難にぶつかる中で、自分たちの信仰を、失いかけていました。神様を見失いかけていたのであります。イスラエルの人々は、神様こそが、自分たちを導き、歩ませてくださること、自分たちと共にいてくださるということを、忘れかけていた。神様こそが、困難の中からも救い出してくださると、希望を持って歩むことが、できなくなっていたのです。
そこに現れたのが、ペルシアの国の王さまキュロスです。キュロス王、その国ペルシアによって、バビロン帝国もまた討たれていったのでした。そしてこのキュロスによって、イスラエルの民は、解放されていくことになっていくのです。キュロスは、イスラエルの民を捕虜とするのではなく、自分の国へと帰らせるのです。聖書はキュロス王と、ペルシアの出現と行動を、このように理解しているのです。「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。」(イザヤ45:1)
「主が油を注がれた人キュロス」。
神様の油注ぎ、つまり、神様からの恵みが注がれた人です。だからこそ、キュロスはバビロンに勝つほどの力が発揮されたのだ、ということです。そしてそこには、神様の意志と神様の栄光があるということです。そこにペルシアの王キュロスの人間性、人格が大きく問われていたのではないのです。ペルシアの王キュロスを、神様は用いて選んだということです。そして、そこには神様の選び、神様の油注ぎがあったのだということです。
キュロスを選び、神様の力が発揮された。神様はそのようにしてイスラエルの民を守られたのです。イスラエルの民、バビロンで苦しんで、困難に立ち向かうこともできなくなった一人一人を、救うために、神様は、救うための救世主を送り出すことを示されたのであります。キュロス王には、そのような象徴的な意味、救い主という意味が示されたのでした。
「神様は光を造り、闇を創造された」という今日の説教題は、7節からとってきた言葉です。神様が光を造られたということは理解できるが、闇をも創造されたということは、どういうことだろうと、思われるかもしれません。イザヤ書は、実際、イスラエルが現実に闇に生きるうちに記された書物です。バビロン捕囚という奴隷にされた「闇」、そして、キュロスというペルシアによっての解放としての「光」。イザヤ書では、バビロンによって苦しめられたことも、キュロスに助けられたことも、すべては、世界の創造主である神様の出来事だというのです。神様は困難の時にも共におられ、そこから光の道に導いてくださるのです。
2: 山々が平らになる時
イスラエルの人々はバビロンにあって、困難を極めていました。「闇」のうちに、そしてそれは山登りで、いくら登ってもたどり着くことができない、そのような希望を持てない道を生きていたのです。多くの山々を登り、疲れ切った体で、それでもまだまだ山々を前にして、もはや登ることができない思いに絶望を感じているように、であります。バビロンにあって、イスラエルの人々は、捕虜の人生、奴隷の人生です。奴隷の仕事の基本は、同じことを繰り返し続けることです。エジプトであればピラミッドのための石を運ぶことです。それがいつまでもつづくのです。バビロンにあってもそれほど変わることはないと思います。神殿造りのレンガ運び、お城や家の建築材木を運ぶのです。今日も明日もあさっても、仕事は変わることがなかったでしょう。
イスラエルの人々は、バビロンでの生活で、どこに希望を見出すことができたのでしょうか。歩いても歩いても、解放の扉が見えない。そんな希望のないような道、生活が一番の困難の原因でしょう。生活の中にあって、希望が持てないということは。まさに本当の絶望です。それが山々を前にして、一歩も前に進むことが出来なくなった人間ではないでしょうか。
今、私たちは生活に希望をもっているでしょうか。私たちも当時のバビロンでのイスラエルの生活と同様に、同じことを繰り返す生活が続いているかもしれません。いつのまにか、じぶんでは知らないうちに、社会の奴隷となってしまっている。そのような生活が続いているのかもしれません。私たちは、今、希望を持つことができているでしょうか。希望をもつ時は生きる力が心の中からわいてくるものです。私たちは生活の中で、日々、希望をもって生きているでしょうか。
今年はブラジル・リオでオリンピックがあります。現在は、その予選、また選考が行われている時です、オリンピックは4年に1度のスポーツの大会です。オリンピックを中心に目指す時に、4年に1度というのも大変だと思いました。スポーツ選手は、オリンピックが終わると、次のオリンピックを目指すのか、どうするか、とても迷っている人をよく見るのです。それは、4年間、もう一度、とても大変な練習を続けるかどうかです。毎日のトレーニング、決まった食事、休みにもけがをしないよう、体が弱くならないよう、ずっとそのことばかり考えて、取り組むのです。それはとても大変なことでしょう。いっぱいいっぱい練習をして、4年に1度のチャンスに向かうのです。それは、とても大変な決心が必要なことでしょう。
あるプロのスポーツ選手が、一時、疲れを覚えて、このようなことを言っていました。「私の生活には光が必要。どうしたらいいのかわからない」。「迷子になった気がする」「私はいつまで強くならなければならないのか?私は強くなるために様々な困難を何度も乗り越えてきた、自分を犠牲にして。私は幸せなのだろうか。私は幸せになりたい」「ときどき私は自分の私生活を見殺しにしていると感じる」
プロのスポーツ選手は、まさにそのスポーツを中心に生きています。そのために、私生活を捨ててでも、頑張って練習をしているでしょう。そして、その中では、乗り越えられないと感じる、困難や苦しみ、大きな壁はたくさんあるのでしょう。私たちの人生にも山々を乗り越えなければならないと思う時があるのではないでしょうか。しかし、いくら乗り越えても、どんなに頑張っても、困難という山はまた目の前に立ちふさがるのかもしれません。私たちが生きるということは、そのような困難を生き続けることでもあるのかもしれません。それがわかっていても、私たちには「もう歩けない」「もう立てない」という時がくるのかもしれません。
聖書が言ったのは、私たちが頑張って山を乗り越えることではありません。そうではなく、山が平らになる時がくると教えるのです。目の前の困難、私たちにとっての山々は必ず平らになるというのです。イスラエルの民の捕囚からの解放、それは私たちに今、語ります。「山々は必ず平らになる」と。私たちも解放されると。今、私たちは、どんな困難にぶつかっているでしょうか。今、私たちは、どれほどの山を見上げているでしょうか。山が平らになる。それは自分が努力をしなくても、頑張らなくても困難がなくなるということではないでしょう。どうすることもできない困難に出会っているときに、私たちはどうすればいいのでしょうか。絶望に打ちひしがれるしかないのでしょうか。希望の神様は、山をも平らにされるというのです。
神様が山を平らにする。それは、私たちに生きる勇気と力を与えるということです。山が、山ではなくなる。それは絶望的な困難ではなく、それが、希望を指し示す道のりであるということを教えられるのです。
3: わたしがあなたを選んだ
「わたしの僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。」(イザヤ45:4-5)
聖書は、「あなたは知らなかった」と語ります。私たちは知らないのでしょう。私たちは忘れてしまっているのです。神様が私たちを愛して、私たちを選び取り、私たちの目の前の困難から必ず助けてくださるということを。そして、だからこそ、神様ではなく、自分の力で解決しようと頑張るのです。なんとか自分の力で踏ん張っていて、自分だけで乗り切ろうとするのです。そしてだから、私たちは気がつかないのです。神様が共にいることを。神様が困難を担っていることを。私たちは、自分の力が限界にきた時に、「もう、だめだ」と思ったときに、神様が見えるのかもしれません。でも、だからこそ、そのもっと前から、神様の助けを信じて、飛び込んでみればすぐにわかるでしょう。神様が私たちを助けてくださっていることが。神様こそが、私たちの困難を一番に心配してくださっていることが、わかるのです。
私たちはすべてを委ねて、神様に飛び込んでみればいいのです。自分の力で、まだなんとか…と思って頑張る必要はないのです。神様の力に委ねればいいのです。その存在を信じて、神様を信じて、神様の愛を信じて受け止めてもらえばいいのです。神様の愛を信じてみて、歩み始めるときに、人生が変わり始めるでしょう。解決できなかったことが解決し始めるのです。そして、そこに神様の存在を感じ始めるのです。山は平らにされていきます。私たちは、信じていくときにこそ、神様の本当の恵みを喜びとして受け取ることができるのです。神様が私たちを選んでくださったのです。私たちは、神様の力を受けて、神様の選びを受けていきましょう。
4: すべての創造主
最後にイザヤ45:7を読みたいと思います。
「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」
「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。」私たちの神様は、光を造られた神様です。そして同時に闇も造られました。そして神様は平和を造られ、同時に災いも造られた。それが私たちの神様です。それは光が闇を許容し、平和が災いを受け入れるだけではありません。神様は困難も災いも、「闇」を造られたということなのです。私たちの前の困難も、その闇も、その災いも、創造主なる神様が造られているのです。わたしたちはどのように、この言葉をうけいれるのでしょうか。特に、今、目の前が困難で立ちふさがれているときに、その困難が、神様によるものであることなど、受け入れられないではないでしょうか。
東日本大震災のあと、私はこのようなことを質問されました。「創造主なる神様は信じます。でも創造主なる神様は本当に愛の神様なのでしょうか。」自然災害、突然の事故や病気を受ける時、私たちは神様を見失う、神様の愛を感じ取れなくなるのかもしれません。しかし、創造主なる神様だからこそ、「闇」をも支配される方。山も壁も、困難も造られた。そのような神様だからこそ、「闇」を打ち破る「光」に導くことができるのです。しかしまた、どんなに言われても、「闇」はないほうが良いと思うのかもしれません。その山々が最初からなければ、困難も「闇」も必要ないとも…そのようにおもうのかもしれません。
そのような、思いに答えをくれた言葉があります。
今日は、NYリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩を読んでみたいと思います。
大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
(J・ロジャー・ルーシー神父)
神様は確かに、「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者」。それが私たちの神様です。私たちが求めるものは、いつのまにか、自分のためだけのものとなっているのかもしれません。神様は、私たちがその愛を知るために、私たちが神様に出会い、本当の愛をいただくために、そして、イエス・キリストが共に歩んでくださっていることを知るために、闇を造り、光を創造されたのであります。
困難の中にあってもいつも、イエス・キリストが共にいて、私たちの痛みも苦しみも受け止めてくださっているのです。神様は「闇」を造り、その闇を生きる人間とともに、生きて、苦しまれているのです。そこに神様の愛があるのです。わたしたちは、このということを知って歩んでいきたいと思います。
目の前の困難、山々は、それは神様が愛であるということを知るときに、光に導くものと変えられるのです。私たちの人生の希望、生活の解放はイエス・キリストにあります。私たちはイエス・キリストから愛と生きる勇気と力を受けて生きていきましょう。
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