1: 眠っていた弟子たち
今日の箇所はイエス様が十字架にかかられる前の祈り、「ゲッセマネの祈り」です。
弟子たちが寝ていたことは、ただ人間が睡魔に打ち勝つことの難しさを教えているのではないでしょう。イエス様が教えられているのは、眠気という一つの誘惑から、人間が悪の誘惑に対する弱さを教えられているのです。この世における誘惑、そのなかでも私たちが一番中心にある誘惑は、自分が自分で生きているという思いではないでしょうか。私たちは、神様によって預けられた命を生きているのです。
2: 真の神、真の人
今日の箇所は、人間としての痛み、苦しみ、恐怖を受けられたイエス・キリストの姿を表しています。イエス様は十字架に向かっていました。そしてそれ以上に苦しいのは、神様から見捨てられ、その関係を打ち砕かれ、神様から捨てられたものとされることなのです。イエス様は人間として、この世での痛みと苦しみを受けられました。また、この苦難と困難の中で、イエス様は「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36)と言うのです。「御心に適うことが行われますように」。それは神様を中心として生きる決心の言葉であります。この言葉によって、イエス・キリストは誘惑に打ち勝たれたのです。
3: 目を覚ましていなさい
イエス様は誘惑に打ち勝たれました。このイエス・キリストにすがりつくこと、どのようなときにあっても、ただただ、このイエス・キリストにつかまっていくこと。それが「目を覚ましている」ことではないでしょうか。私たちの心は燃えていても、肉体は弱い。その弱さを持つのが人間なのです。イエス・キリストは、そのような私たちのために、その弱さのために、死なれたのです。
イエス・キリストの十字架の出来事による神様の愛を知り、目を覚ましてキリストを見上げることが、私たちの信仰の道なのです。
4: 何を引き渡すのか
イスカリオテのユダはイエス様を引き渡します。それは、私たちの一番の罪、「自分のものではないものを、自分のものであると」した行為です。ユダはエス様を引き渡したのです。自分のものとして。自分がもっているものであるかのように、イエス様を渡したのです。私たちは、いったい何をもっているのでしょうか。わたしたちが誰かに渡すことができるものとはなんでしょうか。私たちの持つもの、そして他者に渡すことができるもの。それはイエス・キリストの十字架という神様の福音しかないのです。
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