1: 眠っていた弟子たち
今日の箇所はイエス様が十字架にかかられる前の祈り、「ゲッセマネの祈り」です。イエス様は父なる神様に祈ります。この場面では、神様に強く祈るイエス様の姿と、それに対してまったく対照的な者たちとして眠っていた弟子たちの姿が示されます。イエス様はこれから十字架に向かうという出来事、つまり人間としての「死」と向かい合う恐怖の中で、ひどく恐れもだえ、苦しみのうちに祈っていました。その恐怖のうちにイエス様は神様と向かい合っていました。それに対して、弟子たちは眠気に打ち勝つことなく、寝ていたのです。弟子たちは眠っていたのです。イエス様はそのような弟子たちにこのように語られます。
「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(37-38)
弟子たちが寝ていたことは、ただ人間が眠気、睡魔に打ち勝つことの難しさを教えているのではないでしょう。ここでイエス様が教えられているのは、眠気という一つの誘惑から、人間の悪の誘惑に対する弱さを教えられているのです。神様から私たち人間が離れるために、いつも働き続けている、「誘惑」、つまり人間を罪に陥れる多くの出来事を指し示しているのです。
弟子たちは、目の前で苦しむイエス様の姿を見ていながらも、睡魔に打ち勝つことができませんでした。つまり、この弟子たちの姿は、十字架によって痛み、苦しむイエス様を知っていながらも、そのイエス・キリストに目を向けることのできない、わたしたち人間の姿なのです。弟子たちは誘惑に打ち勝つことはできずに、3度も寝てしまったのです。3度というのは、ペトロがイエス様を「知らない」と否定した数と同じであり、3度はその出来事の確実性を示しています。弟子たちは3度、つまりこの弟子たちの力では、誘惑には、確実に打ち勝つことができなかったのです。誘惑に打ち勝つことのできない、弟子たちの弱さがここに示されているのです。
イエス様は「目を覚まして祈っていなさい。」「心は燃えても、肉体は弱い。」と言います。私たちの心がどれほど神様に向けようとしていても、私たちの生きる社会には、私たちの心を打ち砕いて、神様から離していく、そのような大きな誘惑があるのです。この世における誘惑、財産や権威、人間関係、など・・・そのなかでも、私たちの一番中心にある誘惑は、「自分が自分で生きている」という思いではないでしょうか。
私たちは自分で生きていると勘違いしている。自分のこの命は、自分の命ものである。だからこそ、その財産や名誉、権威も自分のために手に入れる。自分はこれだけのものを手に入れたということを自分の誇りとしている。そんなことで自分は価値のある人間であると勘違いをしていく。また、その逆に、それらを持っていないことによっては、自分に価値が見いだせない。自分の能力や持っているものを見ては、自分を受け入れられない。
どちらも自分の命、生きている意味、そのすべては自分のものであるという勘違いなのです。私たちは、神様によって預けられた命を生きているのです。この事実を受け入れない、受け入れたくない、自分は自分で生きているんだ、自分の命なんだと、そんな自分のプライド、自分の欲求が一番の誘惑となるのです。
私たちが、そのような誘惑、その罪への誘いに打ち勝つことは、自分が強くなることではないのです。それはむしろ誘惑にはまっていく道です。わたしたちは、肉体を持って生きています。それは人間として、この世に生きるということです。その欲求と、私たちのもつ心、その倫理感の中で、私たちは、いつも揺れ動いているのではないでしょうか。肉体と霊のうちに、私たちの心は揺れ動くのです。私たちは肉体を持ち、霊に生きている。それが私たち人間です。私たちは、心は燃えていても、肉体には弱さがある。そしてそれが人間のやぶれ、人間が人間であるということでもあるのでしょう。そして、そのような私たちが、本当の意味で、誘惑に打ち勝つことは、イエス・キリストにすがりつくしかないのです。この世で、誘惑に打ち勝たれた方、イエス・キリストを主としていくしかないでしょう。
2: 真の神、真の人、イエス・キリスト
イエス・キリストは人間としてこの世に来られました。そして人間として生きたのです。今日の箇所は、その人間としての痛み、苦しみ、恐怖を受けられたイエス・キリストの姿を表しています。イエス様は十字架に向かっていました。死に向かった道。そしてそれ以上に苦しいのは、神様から見捨てられ、その関係を打ち砕かれ、神様から捨てられたものとされることです。神様に見捨てられることほどの苦しみがあるでしょうか。
イエス様は祈ります。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36)
イエス様は、人間として、悲しみと恐れを感じていた。そしてできればその杯、この苦難を取り除いてほしいと願うのです。これが人間としての姿でしょう。私たちは、このイエス様の思いに同感できるのではないでしょうか。目の前にある苦しみ、困難、悲しみを取り除いてくださいと、それが私たちの素直な思いではないでしょうか。私たちは、与えられた目の前にある苦しみ。この苦しみを取り除いてくださいとどれだけ願ったでしょうか。神様に、「見捨てないでください」と、どれだけ祈ったでしょうか。イエス様は、祈ります。それでも神様から死の宣告を受けていくのです。
イエス様は人間として、この世での痛みと苦しみを受けられました。しかしまた、この苦難と困難の中で、イエス様は「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36)と言うのです。ここにイエス・キリストの神としての姿を見ることができるのではないでしょうか。どれほどの苦しみ、痛み、そしてその困難が誘う誘惑に、イエス・キリストは打ち勝たれたのです。「御心に適うことが行われますように」。それは神様を中心として生きる決心の言葉であります。つまり、私たちが自己中心的に生きること、自分の命を自分のものとして生きていること。そこからイエス・キリストは、その命が神様のものであるとして、神様の御心のうちに、すべてがなされていくようにと祈るのです。
この言葉によって、イエス・キリストは誘惑に打ち勝たれたのです。
3: 目を覚ましていなさい
イエス様は誘惑に打ち勝たれました。このイエス・キリストにすがりつくこと、どのようなときにあっても、ただただ、このイエス・キリストにつかまっていくこと。それが「目を覚ましている」ことではないでしょうか。
イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われました。私たちが目を覚ましていく、そして誘惑に打ち勝つとは、私たち自身が何かをもって誘惑に打ち勝つのではなく、むしろ、ただイエス・キリストにすがりつくことなのです。私たちの心は燃えていても、肉体は弱い。その弱さを持つのが人間なのです。イエス・キリストは、そのような私たちのために、その弱さのために、死なれたのです。私たちはイエス・キリストによって、その弱さも、やぶれも、覆われた者とされているのです。わたしたちは、自分自身で生きているのではない、このキリストによって守られているのです。このことを受け入れたいと思います。そしてそれこそが目を覚ましていくということなのです。
イエス様はこのように言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。」(41)「もうこれでいい」。それは「これで十分だ」、そして「これはそのようにならざるを得ない」という言葉です。イエス様は、人間の弱さを知り、それでも受け入れられました。イエス様を裏切り、否定し、逃げ出していく人間です。イエス・キリストを十字架につけた人間です。その人間の弱さを知りながらも、そのような者に「これで十分だ」と言ってくださるのです。
わたしたちは、わたしたちとして生きる。そこにはどれほどの間違えがあり、失敗があるでしょうか。しかし、イエス様は「それで大丈夫」だと、そして「十分だ」と言ってくださっているのです。私たちがすべきこと。それは、このイエス・キリストの言葉に耳を傾け、イエス・キリストの十字架の出来事による神様の愛を知り、自分はキリストによって生かされている、その愛に包まれているということ、そこに目を向けること、目を覚ましてキリストを見上げることが、私たちのすべき、信仰の道なのです。
マザー・テレサの言葉ですが・・・
「与えるものが何もない時は、神に、その“無そのもの”を差し出しましょう。できる限り自分が空っぽでいられるように。そうすれば、神が私たちを満たしてくださいます。たとえ神様でも、もうすでにいっぱいになっているものを満たすことはできません。神は決してご自分を私たちに押し付けたりなさいません。あなた方は、神が与えてくださった愛でこの世界を満たしているのです。」
わたしたちにはやぶれ、弱さがあります。しかし、だからこそ、そこにイエス・キリストの愛を知ることができるのでしょう。すでにこの世で満たされている時、わたしたちは神様を必要としないのかもしれません。むしろ自分に弱さを感じている時、何か自分には足りないところがあると感じているときに、自分の心を覗いてみると、そこに神様がいてくださることに気がつくのではないでしょうか。私たちは自分を見つめ、他者を知る。そこに神様の愛を私たちは感じていきたいと思います。何ももたなくてもいい。自分を満たす、見せかけの力は必要ではない。ただ目を覚まして、神様の愛が注がれていることを感じていきましょう。
4: 何を引き渡すのか
最後に、イエス様の言葉「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(41-42)から、もう少し学んでいきたいと思います。
イエス様を裏切る者、それは「罪びとたち」そして「人の子を引き渡す者」です。イスカリオテのユダはイエス様を引き渡します。それは、私たちの一番の罪、「自分のものではないものを、自分のものであると」した行為ではないでしょうか。人の子、イエス・キリストはイスカリオテのユダの手の内にあるものではありません。しかし、ユダはそのイエス様を引き渡したのです。自分のものとして。自分がもっているものであるかのように、イエス様を渡したのです。
私たちは、いったい何をもっているのでしょうか。私たちのもつものは何でしょうか。わたしたちが誰かに渡すことができるものとはなんでしょうか。お金でしょうか。知恵でしょうか。私たちが本当に持つもの、そして他者に渡すことができるもの。それはイエス・キリストの十字架という神様の福音しかないのではないでしょうか。私たちは自分の心のうちに問いかけてみましょう。本当に自分が誇ることができるものはなになのか。それは、ただ神様に与えられている、愛、それだけではないでしょうか。それ以外のものは、何であれ、他者に渡すことも、誇ることもできない、自己中心的なものでしかないのです。
私たちはこの神様の福音を生きていきましょう。目を覚まして、神様の愛に目を向け、神様の与えてくださった、イエス・キリストの十字架に目を向けていきましょう。私たちは、この十字架にすがりつき、十字架につかまることしかできません。どのような誘惑も、この十字架の愛から私たちを離すことはできないのです。私たちは命をかけてまで、私たちを愛してくださった、イエス・キリストの愛を受けていきましょう。
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