私たちの主イエス・キリストの苦難と十字架での死を覚える受難節(レント)の時を迎えています。今朝は、ルカ22:27の「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」という主イエスの言葉に注目します。
1.給仕すること、給仕されること
「給仕する者」とは、席に座っている食事客をもてなすために「待ち構えている人」です。主イエスは、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか?」と弟子に問います。年に一度でも良いから、あるいは一生に一度でも良いからミシュランの3星レストランで食事をしたいという方もあるでしょう。給仕されることは、貧乏性の人にはちょっと窮屈かも知れません。「どちらが偉いか?」と聞かれれば、「食事の席に着く人」ということが世間の常識です。
2.この会話の文脈:全くの孤独の中で
この場面の直前には、いわゆる「最後の晩餐」が描写されています。主は弟子のためにいのちを捧げます。直後には、ペトロの裏切りの予告が語られます。弟子たちは、自分たちの間で「だれがいちばん偉いのだろうか」と議論しています。イエス様は孤独です。弟子たちはイエス様を全く理解していないし、ペトロは、三度イエスを拒絶することになります。
3.「しかし」:価値観、生き方の転換
世間では、「王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている」のです。主イエスは、26節で、「しかし」あなたがたはそうではいけないと言われ、27節の真ん中ら、「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」と言って価値観の逆転、生き方の逆転を語ります。
4.主イエス:給仕する者である!
E. シュヴァイツァーの言葉に耳を傾けてみましょう。「日没と共にすでに彼の死の日が始まっていた。彼はもはや何もできない。彼はこの日をただ終わりまで耐えることができるのみである。…しかしまさにこの状況が、非常に印象深いかたちの発言を与える。イエスはまさにそれによって彼の弟子たちに最大の奉仕をしており、神が彼に負わせた奉仕を彼はただ耐え忍ぶことだけであった。イエスは今や、彼は奉仕する者に過ぎないのであり、決して、「より偉大なもの」などではないことが確認される。イエスは彼の実存を通して、以前のあらゆる価値あるものを根本的に彼の反対の仕方でひっくり返す。ここに決定的なお方が存在するのである。権力を持つのではなく、単に良いことを行って名声を得ようとするのでもない。ただ無力な者、そしてあらゆるものから嘲られて死ぬことができるお方なのである」。
5.奇妙なつけたし? 28~30節
「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒にとどまってくれた」。冗談でしょうか?最高の嫌味でしょうか?一番大事な夜に「だれが偉いか」などと議論していた弟子たちです。しかし、弟子たちは、ここまでは何はともあれ、主イエスに従ってきた。主は、弟子たち、そして皆さんがなす、いと小さき者にした小さな奉仕を喜んで下さるのです。(松見 俊)
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