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2016.3.20 「逃げ出した者が帰る場所」(全文) マルコによる福音書14:43-52

1:  闇の中での出来事

 今日の箇所で、現実として、イエス様はイスカリオテのユダに裏切られ、捕えられ、弟子たちは逃げて行ったのです。これは、確かに闇の出来事でした。それは時間的にも、出来事の内容としてもです。最後の晩餐といわれる食事の後、イエス様はゲッセマネで祈りました。祈りの時、弟子たちは眠ってしまいました。そして今日の箇所になります。時間は夜中。闇に包まれた中で、この出来事は起こっていったのでした。イエス様が捕えられ、連れて行かれるという出来事は、まさに光のない出来事として、闇に包まれた中で行われていったのです。

 そしてまた、14:1-2において祭司長たちのこのような姿がありました。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。」イエス様を捕えていった祭司長たちや律法学者たちは、なんとかイエス様を捕えて、殺そうと考えていたのです。このときの祭司長たちや律法学者たちの姿から2つの事柄を知ることができます。

 

 1つは、祭司長たちや律法学者たちが、民衆を恐れていたということです。もともと、彼らの行動は、恐れから始まっていました。彼らは民衆から尊敬され、地位を持つものたちでありました。だからこそ、イエス様のこれまでの明確な言葉と、その力ある業によって、自分たちの地位が奪われるのではないかと恐れていたのです。そしてイエス様を捕えて、殺してしまおうとまで考えたのでした。この時、彼らはイエス様を恐れ、そして民衆を恐れていたのです。彼らは、今からしようとしていることが、民衆の思いから離れていることを自覚していたのでしょう。民衆が知れば、騒ぎ出す、つまり異論を唱え、間違えれば、民衆によってこの行為が否定され、自分たちのほうが危ない目にあうのではないか。そしてこのようなことをすれば、余計に、民衆は自分たちを尊敬するどころか、自分たちに愛想を尽かし、イエス様を支持する者となってしまうのではないかと、その民衆の心、動きを恐れていたのです。

 彼らは、民衆を恐れていた。しかし彼らは神様を畏れてはいなかった。多くのものを恐れていたが、彼らは神様を畏れてはいなかったのです。その一つに、これらが闇のうちに行われたという姿によって知るのです。彼らは闇のうちにこの出来事を葬り去りたかったのでしょう。闇のうちに行い、闇に消してしまおうとしていたのです。

 

 私たちにも、その間違いや失敗を闇のうちに消してしまおうという、誘惑があるのではないでしょうか。なかったことにしたい失敗、誰にも知られたくない間違いは、消してしまいたいものです。悪いことを隠そうとする。それは私たち人間の前にある大きな誘惑です。ニュースでは、隠そうとしていたことが明らかになった出来事が、本当にたくさん報じられます。政治家がお金を流用していたこと、また口利きをするからと、お金を受け取っていたこと。超有名スポーツ選手が薬物使用していたこと。ドーピングの発覚。イクメンと言われた者の女性関係。隠していることはどんどん暴かれていくのです。

 人間が隠していることも、いずれは暴かれる。そんなことを、日本では、「だれも見ていなくてもお天道様は見ている」という言葉で教えてきました。しかし、現在の日本人は、そのような神仏を畏れるという思いは忘れてしまったのでしょう。科学的根拠だけを信じ、意味があるかないかで考える生き方。すべては自分のもの、命も、時間も、財産も、そこには、神様など必要ないのでしょう。神社に行くのも、お寺に行くのも、そして教会に来るのも、神様を畏れ参拝、礼拝をするのではなく、むしろ神様にお願いごとを聞いてもらうため。神社では、学業、恋愛などがうまくいくようにと願い、必要な時だけお参りをして、願い事をする。つまり自分のために神様をも利用している。それが現在の日本人の姿なのではないでしょうか。失敗や間違いは、闇に葬り去れると信じている。消えてなくなると。そのような神様を畏れないという姿。それが今日の聖書に出てくる、祭司長たち、律法学者たちの姿です。そしてそれは、今の私たちの姿と同じように、神様を畏れない者としての姿であったのです。

 そのような彼らの行為によってイエス様は捕えられていくのです。闇に葬り去るために、闇に包まれた時に、闇の行動として、いずれ消え去る出来事として遂行されていったのです。

 

2:  闇の中に光る神様の計画

 先ほど言いました、祭司長や律法学者たちの姿によって示された、2つの出来事のうちの、もう一つ、それは、この闇のうちの出来事のうちに起った出来事が、神様のご計画としてなされていったということです。これほど闇に包まれた出来事を通して、神様の計画は進んでいったのです。人間の作り出していく闇のうちに、十字架という神様の愛の道が作られていたのです。人間が闇に葬り去ろうとした出来事は、2000年もたった今にも明るみに出され、そしてそれは神様の最大の愛の出来事、イエス・キリストの十字架の出来事の準備として伝えられていくこととなったのです。

 この出来事は私たちに大きな希望を与えます。今、少しでも、心に不安をもっている方。そこに神様の光は注がれています。神様はどれほど深い闇の出来事を通しても、それを自らの計画の一つとしてくださるのです。その闇の深さ、自分の弱さやずるさが深ければ深いほど、私たちは、神様の愛の深さを知ることになるのです。このとき、祭司長たち、律法学者たちは、一人の人を殺そうと計画していました。人間が人間を殺そうと考え、計画していたのです。そして、その実行犯として働いたのが、12弟子の一人、イスカリオテのユダでした。

 ユダがなぜ裏切ったのか。別の福音書では、金銭を目的としたとか、悪魔が入ったなど、理由を付けていきます。しかし、このマルコではそれら理由は一切ありません。ただユダは12弟子の一人としてイエス様を裏切ったのです。ここでは特に、「12人の一人であるユダ」(43)と記されます。イエス様を裏切ったのは、イエス様の一番近くにいた12人の一人であったと強調しているのでしょう。

 マルコがこの福音書を記した時代には、すでにイエス様の弟子たちによって、教会が立ち、そこにイエス・キリストを信じる集団がありました。その中で、イエス様の一番近くにいた、12弟子の一人が裏切ったということは、集団をまとめあげるのには、あまりうれしくない情報かもしれません。12弟子の一人が裏切ったなどということは、ないものとして、律法学者たちと祭司長たちが殺していったとしてもよかったはずです。しかし、マルコは、12弟子の一人ユダが裏切ったことを伝えます。マルコは本当の人間の弱さ、ずるがしこさ、その闇の心の深さを表しているのです。そして神様はこの裏切り、人間の闇の心さえも用いて、ご自分のご計画を行われていったということを伝えるのです。ユダの裏切りによっても、神様はご自分の計画を行われていったのです。

 人間の闇は深いものです。わたしたちも、憎む人や出来事、絶対赦したくないこと、そして受け入れたくない闇の出来事が一つはあるのではないでしょうか。そしてその最大の闇は、人間が人間を打ち殺すということです。「あんな人がいなければ」「いなくなってしまえばいいのに」「わたしはあの人を受け入れない」、このような思いは、たとえ自ら直接手を下していなくても、その人間の存在を否定しているのです。そして共に生きることを拒み、理解せず、受け入れない。そして関係を断絶する。それは、私たち人間のうちにある最大の闇の心です。そして私たちは、この闇の心に、よって、時に人を傷つけ、そして時には、自己嫌悪に陥り、苦しむのではないでしょうか。

 

 しかし、その深い深い闇のうちにこそ、神様はイエス・キリストを送られたのです。イエス・キリストの十字架という、神様の愛の出来事は、そのような深い、本当に誰にも見られたくない、深い闇の心のうちに、神様が来られ、その闇を愛に変えていくという出来事なのです。人間の闇の心が、神様の計画のうちに愛の業と変えていかれるために、イエス・キリストは十字架にかけられたのです。神様の計画は、人間の闇の心のうちに自ら死に、そして死に打ち勝ち、人間に愛を注がれていくという、愛の計画です。人間の弱さは、神様の計画のうちに、福音と変えられていったのです。

 

3:  逃げ出した者

 そして今日の箇所では、イエス様が捕えられる中で、逃げ出していく弟子たちの姿、また一人の若者の姿を教えるのです。イエス様の弟子たちは、「どこまでもイエス様についていく」と言いました。

 マルコの10章では、ゼベダイの子ヤコブとヨハネはこのようにイエス様に言いました。

 マルコ10:37-39「二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言」ったのです。

 また14:31で弟子たちはこのようにも言いました。「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」とあるのです。

 

 ペトロを筆頭に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、ほかの弟子たちも「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と言ったのです。しかし、イエス様が捕えられていく場面で、弟子たちは「イエスを見捨てて逃げ出してしまった」のです。イエス様が目の前で捕えられていく中で、弟子たちは、ただただ逃げ出したのです。この出来事は、弟子たちに、自分たちの弱さを突き付けます。これまで弟子たちは、自分たちが、イエス様の弟子としてふさわしいと信じていたでしょう。自分たちこそが、イエス様の弟子なのだと。選ばれた者なのだと信じていたのです。しかし、イエス様から逃げ出した今、その自信、選ばれたと信じていた思いは打ち砕かれました。弟子たちは、自分たちが選ばれたのは、自分たちにそれなりのものがあるからだと思っていたのではないでしょうか。しかし、「逃げ出す」という行為によって、彼らが弟子に選ばれたのは、彼らのうちに何か弟子らしいものとしての資質、能力があったのではないことを突き付けるのです。その現実を突き付けられたのです。

 この情けない、弱く、力のない弟子たち、一度はイエス様から逃げ出して、その弟子としての思いを投げ出した者たち。彼らが、キリストの十字架と復活によって、本当の信仰を与えられて、本当の弟子とされていったのです。弟子たちは逃げ出しました。しかし、それは自分の心の中にイエス様を迎え入れる準備の出来事となっていったのです。自分の心のうちにある、本当の弱さ、みじめな姿に目を向けた時に、弟子たちは、本当にイエス・キリストを必要としたのです。自分の心には、イエス・キリストの愛が必要なのだと。イエス・キリストの十字架と復活による、神様の愛と憐れみを求める者となっていったのです。

 わたしたちは、十字架のイエス・キリストから逃げ出している者です。自分の心の闇、弱さ、力のなさ。決して見たくはない、本当の自分の姿。闇に葬っておきたい思い。わたしたちはこの現実から逃げ出すのです。私たちが目をそらしておきたい、その人間の弱さがイエスを十字架につけたのです。しかし、その、私たちには帰る場所が与えられました。それがイエス・キリストの十字架と復活という出来事です。神様は、私たちの弱さをも用いて、その闇の心をも用いて、愛の行為を起こされたのです。

 わたしたちはただ、神様を信じる。その御業を信じる。その愛を信じる者として、神様の御許に帰るのです。

 

4:  教会は、この弟子たちによって造られていった。

 教会は、一度、神様から逃げ出し、神様など知らないと言った弟子たちが、もう一度神様の前に帰ってきて、始まりました。神様と関係を断ち切った者が、自分の何かではなく、ただイエス・キリストの十字架と復活によって、神様との関係をもう一度つなげられた者たちです。それは心の土台を、自分たちから、イエス・キリストに委ねた者。主を土台とした者たちの集まりです。それはみなさんも変わりません。私たちは、神様から逃げ出した者。そのような弱さを持つものです。しかし、それでもイエス・キリストの愛を十字架と復活の中に受け入れた者です。

 私たちに何ができるでしょうか。それは、私たちには何もできないということを知り、認めるところから始まるのだと思います。私には、何もない。何もできることなどない。何ももっていない。ただ、持っているとすれば、イエス様が心の中にいるということ。そしてできるとすれば、イエス様の働きを信じること。神様のご計画を信じていくことが、わたしたちに与えられた希望です。神様の働きを信じることが、私たちの希望なのです。そしてそれは、私たちが、自分では何もしないということではないのでしょう。私たちは、主の愛に喜ぶのです。自分には力がなくても、神様が私たちを愛してくださっているということを。喜び、伝えるのです。愛されている者なのだと。証しして、祈るのです。わたしたちは、失敗や間違いを犯しても、闇のうちに行う事柄でも、神様はそれをも光と変えてくださいます。

 私たちは神様を畏れるのです。しかし、自分の力のなさ、この世に恐れることはないのです。喜びましょう。そして神様の愛を心の中心に受け止めて、進んでいきたいと思います。そして、そのような神様の憐れみを土台として、教会を造りあげていきたいと思うのです。私たちは、何よりも、礼拝し、賛美し、祈り、そしてその喜びを表していきたいと思います。

 

 今日から、受難週に入ります。イエス・キリストの十字架の痛みを、特に、記念して覚える時です。私たち逃げ出したもの、そして裏切った者のために、主は死なれました。それは私たちが逃げ出し、裏切った者としてだけに生きるのではなく、それでも、私たちは愛されているということを知るためです。イエス・キリストが流された血によって、わたしたちは、神様に立ち返る者としての道を示されました。無力な者でも、愛されているということを教えられたのです。今、私たちは、キリストの痛みと叫びに思いを巡らせましょう。私たちはその叫びを土台として生きるのです。そして私たちは、自分のできることではなく、神様のなされたことを信じていきたいと思います。

 主は命をもって、私たちを愛されました。私たちは、ただその十字架に従っていきたいと思います。