創世記2~3章については、いままで6回にわたりみ言葉として味わってきましたが、今朝は創世記1章を読んでいます。1章は2章、3章よりも百年から数百年後に成立したと考えられています。2章~3章が、おおらかな「万葉集」のような趣であるとすれば、1章は几帳面で繊細な「古今集」「新古今集」のようなものになっています。古代イスラエルの歴史は、エジプトの抑圧状態から主なる神が、イスラエルを解放された出来事、約束された地に入り、そこで、神を中心にして12部族連合を結成したことが中心ですが、12章から始まるアブラハム物語の前におかれた創世記の1~11章までは、この基本的物語に後から加えられたと推定されています。まあ、聖書歴史学は進歩し、変わっていきますので、あくまでも学者たちがそう考えているわけです。
45年以上前の、ある日曜日の朝のことをありありと覚えています。この東福岡教会の会堂の前の部分で(現在成人科の分級が行われている場所ですが)、小学生の教会学校をしていたのです。小学校4,5年生の女の子がこう言ったのです。「神さまが世界を造ったって言うけど、見ていた人なんかいないちゃろ?! じゃあ、これ、嘘じゃ、作り話や」。「くそ、生意気な」と思いましたが、学校では科学的な知識を教わっていますので、実際に人間の力で証明できないものはみな作り話と考えるのでしょう。大学生くらいになると「物語」でしか伝わらない深い「真実がある」のだということを教わるわけです。そして、原子力発電の安全「神話」のように、かえって、科学技術に多くの嘘、人間の虚栄や傲慢があることも学ぶことになります。ですから、創世記1章が、どのような社会状況の中でどのような人たちによって告白されたかを知ることが重要なことになります。
1.創世記1章の背景
北イスラエル王国は、紀元前721年アッシリア帝国によって滅ぼされ、南ユダ王国は、紀元前587年バビロニア帝国に滅ぼされたことは説教や聖書研究によって度々お聞きになったことでしょう。実は今でも通用する哲学、宗教は大体この時代に成立しています。イスラエルの国が敵の圧倒的武力の前で崩れ去った経験はまさに、全くの闇に覆われるような深い絶望的経験でした。「地は混沌であって…」。この経験を想像してみること、いや皆さんが経験している困難や不条理な経験を思いながらこの箇所を読むことが大切なことです。「混沌」と翻訳された「トーフー ワ ボーフ」という表現は珍しいもので、ユダ王国の滅亡を体験した預言者エレミヤ4:23に用いられています。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。私は、見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た、見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」。70年前の日本の戦争体験では、「国破れて、山河あり」であり、国は破綻し、歴史は変化しても、美しい自然世界は残っていると詠んだ中国の杜甫の想いに共感した人たちも多かったと思います。しかし、イスラエルの敗戦経験はそれどころではない、まさに悲惨そのものであり、確かで揺らぐことはないと思われていた山々でさえ揺らぎ、空の小鳥たちもいなくなり、豊かな畑も荒廃し、町々は破壊尽くされたのでした。最近もシリアの政府軍、反政府軍、イスラム国、そして有志連合の空爆などで破壊し尽くされた映像、夥しい難民たちをテレビで見ています。そのような中で、創世記の冒頭が書かれたのです。「初めに、神は天地を創造した。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた、「光あれ」。こうして、光があった。」このように、混沌、絶望、暗闇の経験の中からこの創世記の信仰告白が記されているのです。
2.「創造」(バーラー)
神は、天地を「創造された」。神と翻訳された言葉は実は複数形で「神々」と翻訳すべきことばですが、「創造された」(バーラー)は第三人称単数形です。なぜ、神々(エロヒーム)が用いられているのかを考えればまたもう一つの説教になるので、今朝は深入りしません。注目したいことは「創造する」という言葉です。この言葉は、神だけが主語の場合に用いられ、人が何かを「創造する」という形では用いられません。16節の「神は二つの大きな光る物と星を「造り」は「マーサー」というヘブライ語が用いられて、create と make が区別されています。すでに創造した世界を促す、6節の「あらしめよ」(let)あるいは、9節の「天の下の水を一つ所に集まるようにさせよ」11節の「地をして草を芽生えさせよ」(let it be)とも区別されています。聖書の神は、イスラエルを救い出す神、戦争の神である「万軍の主」であるだけではなく、天地万物を創造した方であるというのです。イスラエル国家が崩壊して、彼らが夢も希望もなくなったとき、役に立たない、イスラエルを護れない神など捨ててしまえ、という危機に直面したわけです。その中で、エレミヤなどの預言者たちは、そして、祭司たちは、神は全世界を創造された、「世界の神」であることを指し示したのです。そうすることで、イスラエル人たちをその信仰に留まらせたのでした。もし、神がイスラエルの民族神であれば、戦争に敗れて国が崩壊してしまえば、信仰は破綻してしまうのですが、神は天地万物を創造された「世界の神」であれば、イスラエル民族が誤りを犯せば、それに気づいて悔い改めるように、他の国々、敵国を通して働くのである、神の愛はそのような働き方がおできになるという信仰です。この信仰が世界に、そして、イスラエル民族に画期的なインパクト(衝撃)を与えて、2千数百年の間、信じられてきたのです。何か悪いこと、不条理なことがあれば、すぐに、落ち込んでしまい、自分は神から愛されていないのではないかと思い悩んでしまう私たちです。しかし、万物を無から創造された神を信じ、「光あれ」と言われた神を信じるなら、あの孤独と絶叫の中に殺されたイエスを死から引き挙げられた神を信じるからには、闇のような経験の中でも神の愛を疑わない生き方が成り立つのです。神は「天地を創造された」とはそのような希望の力を私たちに与える画期的な信仰告白なのです。
3.神の霊
次に、「神の霊が水の面を動いていた」という言葉に注目しましょう。ここでは、2つのイメージを考えてみましょう。古代の原始の海(「テホーム」)は荒れ狂っているイメージです。もともと、イスラエル人にとっては、海は恐れの対象でした。彼らより優れた文化と技術をもった人たちが地中海から上陸してきてイスラエルに圧力をかけるからです。東日本大震災の後、ある漁師が「海が憎い」とつぶやいた言葉を忘れられません。豊富な魚介類を与えてくれた恵みの海ではありますが、津波で一瞬にして愛する家族や仕事を奪っていったのでした。また、海だけではなく、苦難に遭遇して立ち往生してしまうことを「大水」に飲み込まれる経験として描いている聖書の箇所も多いのです。「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水が深い底まで沈み、奔流がわたしを押し流します」。(詩編69:2~3)このような混沌の海を神の嵐、神の風が吹いているのです。「ルアッハ」は「風」「嵐」「息」「霊」など目に見えない力を意味していますが、「春一番」という強い風のように、この神の霊、神の嵐はそこから命が誕生する、春が到来する予感を私たちに与えるのではないでしょうか。まあ、聖書注解者にはこの神の嵐も混沌、荒廃を現していると考える人もいます。
あるいはもう少し穏やかなイメージも可能です。神の霊が、混沌とした大地と荒れ狂う海をしっかりと抱き留めているイメージです。ルツ記2:13には、ボアズがルツに語ったことばがあります。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分報いてくださるように」(ルツ2:12)。主イエスもまたエルサレムの不従順を嘆かれ、マタイ23:37で、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」。ここでは親鳥が雛を護るためにその羽根を広げ、翼で雛を護っている姿が描かれているのかも知れません。そのように、混沌とした大地、そして荒れ狂う原始の海を、親鳥がヒナを護るように優しく、聖霊なる神が覆って下さるというイメージです。神は言葉によって世界を創造し、そのみ霊によって愛を持って被造世界を覆い護られるのです。今朝、創造主である神は、問題を抱え、傷付き、うめいている皆さま一人一人をみ翼の陰に隠し、覆って下さいます。
4.「初めに」(ベレシート)
最後に、「初めに」という言葉を取り扱うのは不思議であると思われるかも知れません。皆さんを生かしている根本的なものは何かということを問いかけるために説教の最後に、この言葉に触れたいと思います。「ベレシート」という言葉は、「ローシャー」(一つの頭)という言葉から由来しています。牛が「1頭」、あるいは羊が1頭などのイメージです。そこから「最初」というような意味になります。問題は、新共同訳や口語訳のように、「初めに、神は天地を創造された」と翻訳することが普通ですが、「神が天地を創造したときには、地は混沌であって」と翻訳することも可能であるようです。最初の翻訳では、神は「無」から「何も存在していない」ところから天地万物を創造されたことになります。私はそのように理解します。人間は何かを造りますがそれはあくまでも「あるもの」を加工して造ります。これに対して、「神が天地を創造したとき、地は混沌であって」となりますと、混沌の闇の中から創造したことになります。いずれにせよ、重要なことは、私たち、あるいは、みなさん、一人一人にとって何が一番大切であるかということです。皆さんにとって「初めに何があったのでしょうか? 多くの日本人は「初めに私がいた」というのでしょうか?自分が自分の主人だと。それはそれなりに重要なことですが、それはおかしいですね。自分で自分の名前をつけた人はおらず、おじいちゃん、おばあちゃん、父や母が名を付けて、それを呼んでくれたので、「わたし」がいるようになったのです。「初めにお金があった」。「初めに欲望があった」。いろいろな考え方があるでしょうが、「初めに神が天地を創造された」という言葉に出会ったときに、私はしびれてしまいました。存在するもの、世界は、何が偶然にそこにあるのではなくて、そこにあらしめているお方があるんだ、人は人との関係も中で人となっていくように、神との関係の中で、人になっていくんだということです。17歳までの私はそれまで全くそんなことを考えてもおりませんでしたので、妙に納得して、神様の存在を信じるようになりました。それぞれの人間の歴史、世界の歴史、国々の歴史は、この「初めに神は天地を創造された」という大きな出来事の枠組みの中にあるのだということです。ここでは、神が世界の主であるという単純でしかも重大なことが告白されているのです。この神の世界創造の物語の中に、小さいけれども自分のささやかな物語を位置づけ、つなげて生きたいものです。「初めの一歩」という遊びがありますが、神様が初めの一歩を踏み出してくださったからこそ、世界や歴史の意味、私、皆さんの人生が動き始めるのです。
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