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2016.4.17 「あなたは神様を必要としていますか?」(全文) マルコによる福音書14:53-65

1:  裁き

 イエス様はゲッセマネの園で神様に祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)

 イエス様の祈りは、人間の心からの「助け出してください」という叫びであり、それでも「主なる神様に委ねる」信仰の祈りでした。イエス様は、この祈りを終えた直後、イエス様は弟子のイスカリオテのユダに裏切られ、逮捕されていったのです。

 今日の箇所は、そのイエス様が逮捕された中での、裁判の内容が記されています。ここでは53節から「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。」とありますように、祭司長、長老、律法学者というユダヤの最高法院の議会が、大祭司のところに集まって、裁判を開いていくのです。ユダヤのうちにあって、裁判を行う必要なメンバーが集まりました。ユダヤの民が神様の前にあって、公正で間違えのない裁判が行われるための人々が集められたのです。

 しかし、この裁判の結果は決まっていたのです。55節で「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。」とありますように、この裁判は「死刑にするため」の裁判でした。結果の決まった裁判なのです。これまでに、すでに祭司長、律法学者は何度もイエス様のことを殺そうと狙っていました。だからこそ、ここでイエス様を掴まえ、裁判をするならば、すでに答えは決まっている。つまりこれは公正な取り調べを行い、神様の前にあって正しい判断をするための行為ではありませんでした。ただイエス様を拒絶した者たちが、イエス様を殺していく準備なのです。

 ここにあるのは、人間が神様を捨てていくという行為、神様が表された愛を、自分には必要ないといい、捨てていく出来事なのです。主イエスが表された神様の愛を、自分には必要ないとし、イエスを拒絶した人間の姿があるのです。

 

2:  あなたはメシアか

 それでも、形としてでも、裁判は行われていきます。そのような中で、61節で大祭司はイエス様にこのように問います。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と、問うのです。

 マルコによる福音書を含め、そのほかすべての福音書の大きなテーマとして「イエスとはだれなのか」という問いが一つの大きなテーマです。この問いに対する答えとして、マルコは1章の1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と答えているのです。「イエスは、神の子であり、キリスト、つまり救い主である」という答えです。このことを、これまでもマルコによる福音書では、8章でペトロが、そして悪霊とされる者が、いくつかの場面において、イエスをメシア、キリスト、救い主と告白してきました。しかし、これまでは「だれにも言わないように」と沈黙を命じられてきたのです。

 そんなイエス様が、ここでついに、この問いに、明確に答えられるのです。「重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った。イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』」(61-62)

 イエス様は「そうです」と答えられたのです。この言葉は「わたしがそれである」という言葉であり、70人訳と呼ばれる聖書では、神様が旧約聖書において「わたしはある」とその名を教えられたときの言葉と同じ言葉となっているのです。この言葉「そうです」とイエス様は答えられました。それは「わたしが神の子であり、メシア、救い主である」と確かに答えらえた言葉となるのです。

 

3:  「わたしはある」

 イエス様はここで、「わたしはある」「わたしは神の子であり、救い主である」と答えられました。当時ユダヤにおいて最も律法を知り、最も知恵ある者たちが、このイエス様の「わたしは神の子である」という言葉、つまり「神が人間となった」という言葉を聞き取ること、認めることができなかったのです。ここに見る、祭司長、長老、律法学者たちは、神様を必要としている姿ではなく、神様を拒絶し、受け入れない姿を見るのです。イエス様の「わたしはある」「わたしは神の子であり、救い主である」宣言を受け入れることができなかったのです。

 その中心には、もともと神様を必要としていない、最初から神様を拒絶している、そのような人間の姿があるのではないでしょうか。本来、一番に覚えなければならないはずの神様。その神様を必要としない。それがわたしたち人間なのではないでしょうか。神様がいるということはとても面倒なことかもしれません。神様がいるということは、自分の命は神様のものであり、同様に、どれほど小さい存在であっても、その一つひとつが神様によって造られ、神様が意味をもって存在を許されているのです。自然を大切にする必要がある。それは神様が造られたから。他人を大切にする必要がある。それは神様が造られ、大切にされているから。自分自身を大切にする必要がある。それは神様の御手にあって造られ、生かされているからです。何一つとして、自分のものではない、神様の造られた、神様に愛されてあるものなのです。

 こんなに面倒なことがあるでしょうか。自分のしたいようにして、生きたいように生きていく。それが間違っているというのです。神様などいない。そのように考えるほうが、どれほど楽で、どれほど好き勝手できるのでしょうか。人間は、そのような思い、つまり自己中心という罪に誘惑されているのです。いつも、わたしたちは「神様を必要としないでいいのだ」「神様なんて面倒なものは信じなくていい」「あなたのものはあなたのものなんだ」という誘惑にさらされているのです。わたしたちは、いつの間にか、このような誘惑に誘われて、神様を必要としない人生を歩んでいないでしょうか。そんなつもりはなくても、いつの間にか「神様を必要としない者」となっていないでしょうか。

 

4:  本当の命に目を向ける

 「神様を必要としない」生き方は必ず行き詰まります。自分が自分で生きているという思いには限界があるのです。私たちの社会にはすでにその歪みが大きく表れています。

 原子力という捨てる場所もないものを造りだし、自分たちが生きている。すでに地球の周りには各国が打ち上げた衛星のごみだらけです。

 創造主なる方、命の造り主なる方を覚えない。そのような生き方は、他者を大切にすることも、そして神様が造られた自然環境を大切にすることも忘れ、最後には、自分の命さえも大切にすることを忘れてしまうのです。自分たちの利益だけを求め、他者のこと、環境のこと、未来のことを考えない社会には限界があります。

 人間はそれぞれに、本当の命の必要性を感じているのではないでしょうか。だれでも、どこかにそのような思いをもっておられるのではないでしょうか。イエス様は「わたしはある」「わたしは神の子であり、救い主である」と語られました。そしてそれは十字架の上での死によって表されました。神様は、十字架という形をもって、私たちに新しく生きる命の道を開かれたのです。神様を拒絶し続ける私たちを、自らが命をかけて、痛みをもって、愛し続けられている命の道です。主イエスは十字架によって苦しみ、死んで行かれました。私たちが神様を必要としないということは、神様は死の苦しみ、痛みを受け続けられているということでもあります。しかし、それでも、神様は、私たちに愛を注がれ続けている。神様は、私たちが立ち返る道を開いて待っていてくださっているのです。

 わたしたちは、選ぶことができるのです。神様を拒絶し、自分のことを中心に生き続けるのか。神様を裁判にかけ、死に追いやるのか。それとも新しく命の道を生きるのか。神の存在を認め、自分が生かされている者だと認め、愛されているということを受け入れるのか。

 イエス・キリストの十字架、そして復活は、私たちが新しく生きる道を開いた出来事です。わたしたちにはいつも主の愛をいただく道が開かれています。私たちは新しい年度を迎えました。この新しいときに、一緒に考えてみましょう。このまま生きるのか、それとも、神様に従うのか。

 そして「愛されている」「神様を必要とする」道を選びとっていきたいと思います。