1: 裁き
今日の箇所はイエス様が逮捕された中での、裁判の内容が記されています。祭司長、長老、律法学者というユダヤの最高法院の議会が、大祭司のところに集まって裁判を開いていくのです。ユダヤのうちにあって、裁判を行う必要なメンバーが集まりました。ユダヤの民が神様の前にあって、公正で間違えのない裁判が行われるための人々が集められたのです。しかし、この裁判の結果は決まっていたのです。この裁判は「死刑にするため」の裁判でした。結果の決まった裁判なのです。
2: あなたはメシアか
それでも、形としてでも、裁判は行われていきます。61節で大祭司はイエス様に「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問うのです。イエス様は「そうです」と答えられました。この言葉は「わたしがそれである」という言葉であり、70人訳と呼ばれる聖書では、神様が旧約聖書において「わたしはある」とその名を教えられたときの言葉と同じ言葉となっているのです。
この言葉「そうです」とイエス様は答えられました。それは「わたしが神の子であり、メシア、救い主である」と確かに答えらえた言葉となるのです。
3: 「わたしはある」
イエス様はここで、「わたしはある」「わたしは神の子であり、救い主である」と答えられました。当時ユダヤにおいて最も律法を知り、最も知恵ある者たちが、このイエス様の「わたしは神の子である」という言葉を聞き取ることができなかったのです。
本来、一番に覚えなければならないはずの神様。その神様を必要としない。それがわたしたち人間なのではないでしょうか。神様がいるということは何一つとして自分のものではない、すべてが神様の造られた、神様に愛されているものだということです。神様などいない。そのように考えるほうが、どれほど楽で、どれほど好き勝手できるのでしょうか。人間は、そのような思い、つまり自己中心という罪に誘惑されているのです。
4: 本当の命に目を向ける
しかし「神様を必要としない」生き方は必ず行き詰まります。自分が自分で生きているという思いには限界があるのです。人間はだれもが本当の命の必要性を感じているのではないでしょうか。神様は十字架という形をもって私たちに新しく生きる命の道を開かれたのです。わたしたちは問われているのです。そして選ぶことが許されているのです。神様を拒絶し、自分のことを中心に生き続けるのか。それとも神様に愛されているということを受け入れるのか。
私たちは新しい年度を迎えました。この新しいときに一緒に考えてみましょう。このまま生きるのか、それとも神様に従うのか。そして「愛されている」「神様を必要とする」道を選びとっていきたいと思います。
コメントをお書きください