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2016.4.27 「ヨセフと兄弟たち」 創世記43:15b-34

1 ヤコブの思い

 ヨセフと兄たちは2度目の出会いをします。今回はベニヤミンが一緒でした。最初に出会ったときにヨセフは「いちばん末の弟を、ここに来させよ」(42:15)と言いました。この言葉に同意した兄たちは、ヤコブのもとに帰り、ヤコブを説得しました。しかし、どれほど説得しても末の弟ベニヤミンを連れて行くことは許されませんでした。それでも、再び食料がなくなっていく中で、ヤコブもついにベニヤミンもエジプトに行かせることにします。

 ヤコブはこのように言いました。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(43:14)ヤコブの思いには、「全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」とあるように「憐れみ」を信じるという思いと、また「わたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」という、どこかあきらめの思いが感じられます。

 ここでのヤコブは、食料の不足という現実の必要から、新しい道を歩みだそうとしているのです。ヤコブはすでにヨセフを失っていました。そして次にシメオンを失いました。そして、それでも今、また現実の必要の中で、今度はベニヤミンを失う危険ある道を進み始めるのです。ヤコブはベニヤミンを連れて行かせる決心をします。それは「神様の憐れみ」に賭けたといえる行為です。そして「神の憐れみ」のみが新しい道を切り開くと信じたヤコブの信仰の姿です。

 ヨセフを失い、シメオンを失ったヤコブです。そこには悲しみ、喪失感がありました。そしてそれでもヤコブは再びベニヤミンを失うかもしれないという道を進みます。神様の憐れみを信じたのです。この信仰の歩みだしが息子たちの裏切りや、欺きをも打破する行為となっていくのです。

 信仰とはどこか賭けともいえるものではないでしょうか。一歩踏み出さなくては感じることができないものです。信仰の歩みだし。それは無我夢中で神様を求めるところから始まるのだと思います。ここでのヤコブの姿は、そのような信仰者として、「神様の憐れみ」に賭けた姿としてうつるのです。

 

2 息子たちの思い

 それに対して、息子たちはいつまでも不安と絶望に囚われているのです。彼らはこのように言いました。「これはきっと、前に来たとき我々の袋に戻されていたあの銀のせいだ。それで、ここに連れ込まれようとしているのだ。今に、ろばもろとも捕らえられ、ひどい目に遭い、奴隷にされてしまうにちがいない」(18)「ああ、御主人様。実は、わたしどもは前に一度、食糧を買うためにここへ来たことがございます。ところが、帰りに宿で袋を開けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入っておりました。しかも、銀の重さは元のままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。もちろん、食糧を買うための銀は、別に用意してきております。一体誰がわたしどもの袋に銀を入れたのか分かりません。」(20-22)

 兄弟たちの言葉は、どこまでも不安の言葉となります。兄弟たちは恐れと不安に囚われていました。まだヨセフとは理解していない中ですので、エジプトの高官の前にあって、兄弟たちは、前回の出来事、袋に銀が入っていたということから不安を抱いています。兄弟たちは、この件で何か悪いことをしていたのではありません。それでも恐れと不安の中にいるのです。

 兄弟たちの不安。恐れの人生。それは、ヨセフを穴に落とし、いなくなってしまったヨセフを、父親には「死んでしまった」と報告した時から始まっていたのです。ヨセフを陥れ、父親を欺き、そして自分自身の心に罪の意識を持ち続けていたのです。その人生は、神様をただの罪を裁かれるだけの主と、恐ろしい方と考えるようになっていたのです。ここから兄弟たちの罪から逃げ出すことができない者としての姿があるのです。兄弟たちは、絶望に囚われているのです。

 42章ではこのように言っています。互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」(42:21-22)

 彼らはヨセフに対して、ヤコブに対して、そして神様に対して大きな罪を犯したのです。そしてその罪から解放されずに生きていました。

 神様を見上げるときに、希望を見るのか、それとも絶望に囚われるのか。それは道を踏み外した時、そして自分の罪を知ったときに、どのような道を選択するかにかかっているのではないでしょうか。ヤコブは神様の憐れみを信じて前に進みだします。それに対して、兄弟たちは、罪に囚われていきました。道を踏み外し、そしてそこから抜け出せなくなっていたのです。兄弟たちの目には、神様は罪に対して、単なる裁き主であったのでしょう。神様が罪に対して、希望をくださる方とは見ていなかったのでしょう。罪に対して赦しを与える方、悲しみの中からも希望を生み出す方とは考えていなかったのです。兄弟たちは、その罪の循環の道を歩んでいたのです。

 

3 ヨセフの思い

 「わたしの子よ。神の恵みがお前にあるように」(29)この言葉は、以前のヤコブの言葉「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」(14)という言葉に対をなした言葉となっています。

 父ヤコブは神の憐れみを望み、息子ヨセフは、神の恵みを望んでいる。この思いは、ヤコブからヨセフへと続いていく、そしてそこから続くイスラエルとしての信仰の言葉なのです。

 ヨセフは、ベニヤミンに出会い、胸が熱くなりました。ヨセフの思いを聖書は「弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになった」(30)と伝えています。ここでの「懐かしい思い」という言葉が並行的に使われている箇所は、ほかにはホセア11:8です。ここでは神様のイスラエルに対する愛を語っています。「ああエフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみにむねが焼かれる」(ホセア11:8)

 神様がイスラエルを愛される。ここではその神様がイスラエルを愛するのと、同じ言葉としてヨセフのベニヤミンへの思いが記されています。ここでは、ヨセフのベニヤミンへの強い思いが記されています。ヨセフは涙を流しそうになり、席を外します。この時ヨセフが見ていたもの、ヨセフの心を支配しているものは、兄たちへの復讐ではありませんでした。むしろ弟への愛です。ヨセフの心は、弟への思いでいっぱいになるのです。

 

4 食卓の表すもの

 そして食事へと移っていきます。32-34では、これまでの緊張感から少しユーモアのある場面となります。食卓は多くのことを表します。

 「食事は、ヨセフにはヨセフの、兄弟たちには兄弟たちの、相伴するエジプト人にはエジプト人のものと、別々に用意された。当時、エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかったからである。それはエジプト人のいとうことであった。」(32)

 この食卓は異様な感じを示します。ヨセフはエジプトの高官です。エジプトの人たちは、そこから離されます。そして兄弟たちはヘブライの人としてエジプト人と共に食事をとることはできないのです。とても変わった状態です。ここでは食事をしながらも、この食卓における交わりには隔たりがあることを見ることができます。

 また「兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向かって年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた。」(33)年齢順に座らされた兄弟たちは驚きます。「そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。」(34)「一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。」(34)のです。ヨセフの兄弟たちはこの食卓に驚き、同時に喜んだ、「酒に酔った」のです。それに対して、ヨセフは単純に食事を喜んでいるだけではありません。このときすでに、次の出来事に向かって考えていました。

 ヨセフは弟に祝福を祈り、特別な食事を与えます。特にベニヤミンに対する特別な料理は、これから起こるベニヤミンへの恐れるべき判決とはまったくちがったものです。この箇所の終わり方は、次に続く、ヨセフの罠、銀の杯の出来事を緊張感ある場面として引き立たせるのです。