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2016.5.1 「ペトロが泣いた理由」 (全文) マルコによる福音書14:66-72

序:  泣いたペトロ

 今日の箇所の最後に、ペトロがイエス様の言葉を思い出して、泣きだしたシーンがあります。「泣いたペトロ」という絵本があるように、イエス様を「知らない」と言い、イエス様の言葉を思い出し、泣きだしたペトロの姿は、聖書の中でも有名な一場面です。泣き出したペトロです。ここでペトロはなぜ泣き出したのだろうか。私自身これまであまり考えもしなかったことですが、今回聖書を読んでいて、そのようなことを考えました。私たちが泣き出す時は、いろいろな場面があります。悲しい時、喜びの時、そして感動したとき、また眠くてあくびをしても涙はでるのかもしれません。こんなことを考えているときに、よくよく考えてみると、小さな子どもは、とにかく泣いていることで様々な心の動きを表しますが、小さい子が感動の中で泣いていることをあまり見たことがないな~と思ったのです。感動する絵本を読み聞かせていると、読んでいるこちらが泣き出しそうになってしまう。もちろん子どもたちもジーと聞いている。それでもあまり、感動して泣く、という子どもを見たことがないな~と思ったのです。

 

 感動することはどのような時期から起こるのでしょうか。そもそも感動するとはどういったことなのでしょうか。広辞苑には感動とは「ある物事に感じて深く心を動かすこと」と記されています。うちの子どもに聞いたところ、感動して泣いたことはないけれど、感動したことはあるそうです。「兄におもちゃを貸してもらった時」、つまり他者の「やさしさに触れた」時に感動したのでしょう。子どもはあまり感動して泣きはしないのかもしれませんが、しっかり感動している、心を動かされているようです。

 ペトロはなぜここで涙を流したのか、自分の罪の深さに耐えきれなかったのでしょうか。今日はそのようなことを考えて、聖書を見ていきたいと思います。

 

1:  ペトロの本心 

 イエス様はイスカリオテのユダの裏切りによって捕えられました。そのときに弟子たちは逃げ出したのです。そのような中にあって、少し離れたところからですが、ただペトロだけが、イエス様について行っていた。ペトロは、イエス様が捕えられる前に、このように言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。(29)「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(31)

 確かに、ペトロはすぐに離れ逃げ出したのではなく、少し離れたところからでも、なんとかイエス様に付き従ったのです。固い決心を語り、信仰を持って、なんとかイエス様に付き従ったペトロの姿があります。このときペトロは、細心の注意をもって付き従ったのでしょう。

 自分がだれかばれてしまえば、イエス様と同じようにとらえられてしまう。そのようにならないように、隠れながらも、それでもイエス様に目を向けて付き従ったのです。ペトロの心は緊張と恐れの中にあったでしょう。そのような緊張の中にあるペトロに思いもよらないことが起こります。

 ペトロが警戒していた、イエス様を連れて行った大祭司、また律法学者、ファリサイ派の人々などではなくその女中から話しかけられるのです。これが、武装した兵士や律法学者からであれば、ペトロの答えは違ったのかもしれません。しかし、思いもよらない人、女中の一人から「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(67)と言われるのです。固い決心のうちに、緊張のうちに歩んでいたペトロの心の隙をついたような言葉だったのではないでしょうか。そして、ここから語りだす、イエス様を否定する言葉は、この心の隙から流れ出た、ペトロの本心だったのでしょう。

 

 イエス様の前で、固く自分の信仰をかたり、実際に逃げ出した弟子たちとは違い、離れながらもついていったペトロです。勇敢で信仰ある者としてふるまおうとしていたのかもしれません。しかし、女中という思いがけない者からの質問によって、心のうちにあった小さな穴から、ペトロの本心が流れ出たのです。そして、その流れ出ていく本心とは、イエス様を否定する心であったのです。ペトロは、イエス様が逮捕され、恐怖や恐れ、不安の中にありながらも、なんとか付き従っていました。しかしその突然の出来事に、心の奥底にあった恐れや不安があふれ出てきたのです。そして、それはイエス様を否定する言葉として語られていったのです。イエス様の十字架の出来事は、私たち人間の本心、心の奥底までを浮かび上がらせます。ペトロはイエス様はとの関係を否定しました。この思いは、私たち人間の心の根底にある弱さを表しているのです。

 私たちには神様という創造主から離れたい、むしろ自分が中心に生きていきたいという思いがあるのではないでしょうか。

 

2:  イエス様の言葉

 今日のこのペトロの裏切りの記事は、聖書にあります、4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、どの福音書にも記されています。その中で、ルカによる福音書は、イエス様との関係を否定するペトロをイエス様が「見つめられた」という記事が出てきます。ルカでは、イエス様が登場しペトロのことを見つめられたのです。しかし、今回のマルコでは、イエス様は登場しません。ここで示されるのは、イエス様の言葉「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(72)という言葉が示されるのです。ここにはイエス様ではなく、その言葉が語られるのです。

 ペトロがイエス様のことを「知らない」と言ったとき、もともと「自分は絶対裏切らない」と言っていた、その自信、決意ある言葉は打ち砕かれたのです。そして打ち砕かれたペトロの心に残ったのは、自分の弱さを指摘されたイエス様の言葉だったのです。ペトロは打ち砕かれました。そして、そこにイエス様の言葉が迫るのです。「あなたは鶏が2度なく前に、わたしを3度知らないというだろう」というイエス様の言葉です。

 このイエス様の言葉が、ペトロに迫ります。ペトロにとって、このイエス様の言葉は自分の弱さを指摘し、そのみじめな姿を予想して語られた言葉であったのでしょうか。そしてだからペトロは自分の弱さを知り、そのみじめさ、悲しさに泣いたのでしょうか。確かにそのような見方もあるでしょう。確かにペトロは自分の弱さを突き付けられ、みじめな姿とされたのです。

 

 しかし、その涙は、ただ悲しみに打ち砕かれただけの涙ではなかったのではないでしょうか。

 ペトロは、イエス様の言葉を思い出しました。その言葉は自分がこれから間違いを犯すだろうと予想しただけの言葉ではなく、イエス様が、そのような自分の弱さを知っていた、そしてそのうえで語られたイエス様の言葉に、感動を覚えたからではないでしょうか。イエス様の言葉は、自分の弱さを知り、その力ない姿を知った者として語られた。そしてそのうえで、自分を弟子としてくださっていたイエス様のことを思い出したのではないでしょうか。

 

 イエス様を否定する者、「あなたなど知らない」という者、そのような自分の弱さ、自分の隠しておきたい部分を、イエス様は知っておられた。イエス様の言葉は、自分のすべてを知っていて、そのうえで語られた言葉であった。そのことにペトロは感動した。心を動かされたのです。深く心を動かされた。ペトロの涙には、そのような意味があるのではないでしょうか。イエス様は、人間の弱さを知っておられます。私たちが隠しておきたいような弱さを知っているのです。自分をなんとかつくろい生きている私たちの、本当の心の弱さや破れを知っておられるのです。

 

 みなさんは自分のすべてを受け入れることができているでしょうか。自分の中でも、こんなところは受け入れたくないと、そのように思うところはないでしょうか。私にはいっぱいあります。子どもに対しては怒りやすいところ、あまり人と付き合うのが上手ではないところ、それでいて口が軽いところ・・・など、もっと皆さんが私に指摘したいところはいっぱいあるのかもしれません。私たちはそのような自分の弱さ、欠点を受け入れることができるでしょうか。

 

3:  肯定される言葉

 イエス・キリストは、このような私たちのすべての弱さを受け止めてくださっています。それは、私たちが受け入れたくないところ、自分自身では見たくもない、否定したい部分をも、イエス様は認められた。イエス様はそのような私たちのすべてを受け入れ、肯定してくださったということです。わたしたちの心にどのような心を持っていても、実際にこれまでどのような失敗を犯した者であっても、私たちは神様に赦されている、生きる意味を認められ、受け入れられているのです。それは、イエス・キリストの十字架の上になされた出来事です。それがイエス・キリストの十字架による、神様の愛の深さなのです。これは私たちの勝手な自己肯定ではないのです。

 それでも神様はそのすべてを愛してくださっている。そしてそのすべてを通して、神様は、私たちを生かしておられる。そしてその私たちの弱さにこそ神様の栄光が表されるのでもあります。

 神様が私たちのすべてを知って、それでも受け入れられた。それはイエス・キリストの十字架の痛みと苦しみの上にあります。それは命をかけた神様の出来事。神様が嘆きのうちに私たちに与えられた、ただ一つの真実です。 私たちはこのイエス・キリストの死という痛みの上に、赦されて生かされているのです。それはただ、なんでもかんでも、何をしていてもいいということではないでしょう。私たちはイエス・キリストの命の上に、生かされていることを自覚したいと思います。私たちの弱さ、その間違いは、イエス・キリストが背負ってくださったのです。

 ペトロの涙は、このイエス様の十字架の痛みを知った涙ではないでしょうか。ペトロが泣き出したのは、ただ自分の失敗を突き付けられ、悲しかったということだけではないのです。その弱さを背負う方、その痛みを背負う方がおられるということに気付かされ、心を動かされた涙だったのではないでしょうか。そして、このペトロの涙は、新しい命を生きるための心の変換をも表すのだと思います。ペトロは心を動かされた。それは、これまで自分の強さを根底に生きてきた自分が、イエス・キリストの十字架の痛みの上に生きていこうと変えられた出来事でもあったのです。

 

4:  復活という出来事

 十字架のイエス・キリストは、私たちを認め、私たちを引き受けてくださいました。そして、そのうえで、新しい命、復活を示されたのです。イエス・キリストの十字架での嘆き。私たちの弱さや、破れを受け止められた出来事は復活によって、私たちに生きる道を示します。イエス様はこのように言われました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(14:28)イエス様が先に行かれる道。私たちはこの道を歩むのです。それは十字架という苦しみの道であり、その先にある復活という新しい命の道です。

 復活は、私たちに新しい力と勇気を与えます。自分を認められない者に、認める勇気を与えるのです。イエス・キリストの十字架の上に立つとき、私たちは、このような者を愛されている方から、生きる力と勇気をいただくのです。私たちの歩む道。それはその先頭にイエス・キリストが歩いてくださっているのです。どれほどの困難にあっても、自己否定し、生きる希望を失いかけても、その道を歩いてくださっている十字架のイエス・キリストを見上げましょう。

 そして、もう一度歩き出す勇気をいただきましょう。そこに必ず復活という新しい命の道が開かれるのです。

 

 新しく生きること。それは神様の愛が注がれた者として自分自身を受け入れること。そしてすべての人間に同様の神様の愛が注がれているということを覚えて生きることです。すべての命を、神様は愛されています。私たちはこの愛を共に喜ぶ者となりたいと思うのです。神様の愛は、私たち、考えが違うものをつなげるのです。

 神様の愛によってのみ、私たちは共に生きるという道が開かれているのです。私たちは、この新しい道、共に生きるという道を歩き出したいと思います。