1: ペトロの本心
イエス様はイスカリオテのユダの裏切りによって捕えられました。ペトロはすぐに離れ逃げ出したのではなく、少し離れたところからなんとかイエス様に付き従います。そのようなペトロに思いもよらないことが起こります。大祭司、また律法学者、ファリサイ派の人々などではなく女中から話しかけられるのです。これは固い決心と緊張のうちに歩んでいたペトロの心の隙をついたような出来事だったのです。ここから語りだすペトロのイエス様を否定する言葉は、心の隙から流れ出た本心だったのでしょう。
イエス様の十字架の出来事は、私たち人間の本心、心の奥底までを浮かび上がらせます。ペトロはイエス様はとの関係を否定しました。
2: イエス様の言葉
マルコではイエス様の言葉「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(72)という言葉が示されます。打ち砕かれたペトロの心に残ったのは、自分の弱さを指摘されたイエス様の言葉だったのです。ペトロは、イエス様の言葉を思い出しました。その言葉は自分がこれから間違いを犯すだろうと予想しただけの言葉ではなく、イエス様はそのような自分の弱さを知っていた。そしてそのうえで語られたイエス様の言葉に心を動かされた。イエス様はすべてを知っていて、そのうえで語られた言葉であった。そのことにペトロは心を動かされたのです。ペトロの涙には、そのような意味があるのではないでしょうか。
3: 肯定される言葉
イエス・キリストは私たちのすべての弱さを受け止められたのです。これはイエス・キリストの十字架の上になされた出来事です。神様は私たちのすべてを知って受け入れられた。それはイエス・キリストの十字架の痛みと苦しみの上にあります。私たちはこのイエス・キリストの死という痛みの上に赦されて生かされているのです。ペトロの涙は、このイエス様の十字架の痛みを知った涙ではないでしょうか。このペトロの涙は、新しい命を生きるための心の変換をも表すのです。
4: 復活という出来事
イエス様はこのように言われました。「しわたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(14:28)私たちはイエス様が先に行かれる道を歩むのです。それは十字架という苦しみの道であり、その先にある復活という新しい命の道です。私たちの歩む道。それはその先頭にイエス・キリストが歩いてくださっているのです。どれほどの困難にあっても、生きる希望を失いかけても、先頭に歩いてくださっている十字架のイエス・キリストを見上げて、もう一度歩き出す勇気をいただきましょう。
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