1: イエス様の熱心な愛
今日の箇所において、イエス様は、一つの譬え話しをされました。
羊飼いとは、私たちの主イエス・キリストのことです。100匹の羊は、神様の子どもとされる、私たち一人一人のことです。そして迷い出てしまった1匹の羊も、また私たち一人ひとりのことです。羊飼いである、イエス・キリストは迷い出た羊、つまり迷い出て行った私たちを一生懸命、探し歩いてくださいます。必ず、私たちを見つけだしてくださる。それほど、一人ひとりの大切さを教えているのです。
2: 罪びとを迎えられた
イエス様が、この譬え話を話されたのには、1つの背景がありました。イエス様は徴税人や、罪人と一緒に食事をされました。徴税人や罪人は、ユダヤ人であって、ユダヤ人ではない。ユダヤ人の社会から嫌われて、追い出され、見捨てられた人々でありました。ユダヤの社会において権威をもつ人々、ファリサイ派の人々や、律法学者たちは、このことを快く思っていなかったのです。
このような人々に対して、イエス様はこの「見失った羊」の譬え話を語られたのです。
3: 一つの命を忘れられない方
イエス様はこの譬えの中で、「一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4)と語られました。ここで語るイエス様の言葉は、99匹と1匹をはかりにかけて、1匹のほうを大切にされたということを教えられているではありません。
保護者の皆さんが、自分が羊飼いであると考えれば、1匹を大切にされる神様の愛を理解できると思います。一人ひとりが大切な命、尊い存在である。数で考えて、一つの命を見捨てることなどはできない。この価値観を理解できるのではないでしょうか。この見失った羊の譬えというのは、イエス様が、私たち一人一人を、数では、計れない、かけがえのない存在として、愛してくださっていることを示しているのです。
4: 真の羊飼い
私たちが、自分の目で、自分の生きる方向性や、行き先を、見極めることは難しいことです。私たちが見極めた人生、その方向が、本当に正しいのか、それを判断することが、私たちには本当にできるのでしょうか。私たちに求められていることは、自分で生きる道を見極めることではなく、その道を、私たちを愛されているイエス・キリストに委ねること、つまり本当の羊飼いに道を委ねることです。羊飼いである、イエス・キリストこそが、私たちを見つけ出し、導き、神様へと結びつけてくださるのです。
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