1 ヨセフの罠
ヨセフは兄弟たちがエジプトに来たこと、そしてベニヤミンを連れてきたことを歓迎しました。そして、ここからヨセフは罠を仕掛けていくのです。ヨセフは、ベニヤミンの袋にヨセフの杯を入れておいたのでした。ヨセフの意図は明確です。ベニヤミンだけに罪を負わせることによって、兄たちがどのようにするのかを試しているのです。ヨセフは、自分自身が兄たちに捨てられたことを決して忘れてはいなかったのでしょう。
人間の怒り、恨み、憎しみというのは赦そうと思っても、簡単なことではないのです。怒りや恨み、憎しみは、そのような心を持っているほうが苦しいかもしれません。この思いを忘れることが求められているのではないでしょう。むしろ忘れるのではなく、そのような記憶を覚えながらも・・・赦す、受け入れることが望まれているのではないでしょうか。
ヨセフは兄たちの仕打ちを忘れてもいないし、赦してもいなかったのでしょう。ヨセフは、この罠をもって、自分自身の心に整理をつけるためにも、兄たちを確かめます。ベニヤミンだけを置いて帰るのか、ヨセフ自身にしたように、ベニヤミンをも死んだものとして父のもとに帰るのだろうか。兄たちの反応を確かめたのです。このヨセフの罠は、ヨセフが心から兄たちを赦すことができるようになるための、ヨセフ自身にとっても大切な事柄でした。
兄たちは「僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、御主人様の奴隷になります。」このように言いました。しかし、ヨセフの執事はこのように言います。「今度もお前たちが言うとおりならよいが。だれであっても、杯が見つかれば、その者はわたしの奴隷にならねばならない。ほかの者には罪は無い。」(10)
兄たちは、もし銀の杯が見つかれば、その者は死罪に、そして兄弟全員を奴隷にしてよいと言ったのです。しかし、ヨセフの執事はわざわざ、「ほかの者には罪は無い」と言いました。これは罪に対する処罰を緩和したのではなく、ヨセフの罠なのです。ベニヤミン一人を罪に陥れるという罠でした。ヨセフは、兄たちの態度を確かめるために、できるだけ自分が受けた時と同じような状態を作りたかったのでしょう。兄たちは弟を見捨て帰ることができる。ヨセフを捨てていったようにです。ヨセフは兄たちを試すために、このような罠を仕掛けたのです。
2 衣を引き裂く
銀の杯がベニヤミンの袋から見つかります。「彼らは衣を引き裂き、めいめい自分のろばに荷を積むと、町へ引き返した。」(13)兄たちは、「衣を引き裂き」、つまり、激しく悲しみの感情を表しました。「衣を引き裂く」とは「悲しみ」「憤り」「絶望」などの感情を表します。
マタイ26:62-66
そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
大祭司は強い「憤り」を表しているのでしょう。
衣を引き裂くという行為は、ヨセフが売り飛ばされたときと同じ反応です。「ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、兄弟たちのところへ帰り、「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」と言った。」(37:29-30)兄弟は、弟ヨセフがいなくなったときにも強い悲しみを表し、今回も同じように悲しみを表したのです。悲しみ・・・そこから兄たちはどのように行動するか問われているのではないでしょうか。悲しむこと、憤ること、絶望など感情を表す行為から・・・そこからどのように行動するか問われているのです。
3 続くヨセフの罠
兄弟ユダの答えは、「わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(16)という答えでした。自分たちも一緒に罰を受けると言うのです。これが今回の兄弟たちの答えでした。弟を見捨て、自分たちだけが助かろうとはしないのです。弟ベニヤミンだけを見捨てるという道を選びませんでした。しかし、そのような兄たちに、ヨセフはもっと圧力をかけるのです。「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」(17)
ヨセフの罠は続くのです。「あなたたちは安心して父親のもとへ帰っていい」と。そして「ベニヤミンだけ奴隷となればよい」といいます。ヨセフは弟を見捨てて帰る道を開くのです。兄たちの心は誘惑に襲われていたでしょう。誘惑の道は広く広く開かれていました。ヨセフは「ベニヤミンだけでよい」と兄たちが弟を見捨てるか、本当の心を知るために、誘惑の道、弟を見捨てるという道を大きく開くのです。兄たちの前には、大きく開いた罪への誘惑の道と、困難と苦しみを伴う狭い道が開かれていました。このような中で、兄たちは困難と苦しみを伴う狭き道を選ぶのです。
4 悔い改め
このあと18節からユダの嘆願へと続いていきます。ヨセフはこの罠を仕掛ける中で何を思っていたのでしょうか。兄たちが自分にしたように、ベニヤミンを見捨てることを望んでいたのでしょうか。それとも、今回は、自分の時とは違う、弟のために自分を投げ捨ててでも見捨てない、そんな姿を望んでいたのでしょうか。ヨセフは兄たちの心を探ります。ここには自分の怒りや憤り、恨みの心をどのようにしていいのか・・・考え苦しむヨセフの姿を見ることができるのです。
兄たちは以前、ヨセフにしたことを悔い改めていたのでしょう。だからこそベニヤミンを見捨てることはありませんでした。悔い改めは、間違った道から正しい道を示します。このときの誘惑は大きな扉を開き、広い道を示していました。しかし、兄たちは、自分たちが共に苦しむ道、ヨセフの時にできなかった道を選ぶのです。兄たちは悔い改め、同じ過ちを繰り返すことはなかったのです。
私たちの罪は赦されます。人間がこの世で生きつづけている限り、道を踏み外すこと、間違った道を進んでいくことがあります。しかしそのような人間を神様は愛された。そしてすでにその間違いは赦されているのです。しかし、私たちが神様の愛。赦しを知るためには、私たちには悔い改める心が必要なのです。自分の間違いを認め、その弱さを知ることで、私たちは神様の愛を知るのです。
Ⅱコリント7:8-10
「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
世の悲しみは死をもたらす。しかし神様に悔い改めるための悲しみは救いに通じるのです。兄弟はヨセフがいなくなったときも衣を引き裂き悲しみました。しかし、父にはうそをつき、ヨセフは死んだとしたのです。今回も、ベニヤミンの出来事において「悲しみ」「衣を裂き」ました。そして今回は、ベニヤミンを見捨てませんでした。ベニヤミンを捨て、自分たちだけ助かるという道を選ぶことはなかったのです。
私たちは道を踏み外し、間違え、悲しみます。そして私たちが問われているのは、そこからどのような道を歩き出すかでしょう。神様に立ち返るのか、それとも、道を踏み外しつづけていくのか。私たちはイエス・キリストによって、立ち返る道を与えられました。何度でも、どのような場面にあっても、わたしたちはやり直すこと、立ち返ることが許されているのです。これほど大きな希望があるでしょうか。私たちは何度でも悔い改めることが許されている恵みを覚えましょう。
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