1: 相談した後に・・・
今日の箇所1節において、祭司長たち、長老や律法学者たち、つまり最高法院全体が相談をして、ローマの総督ピラトに引き渡した姿が記されています。今日の箇所の少し前になります、14章53節からの箇所において、すでにユダヤの最高法院で「イエス様は神を冒涜する者であり、死刑にするべきものだ」と決議したのです。今日のこの最初の1節においてこの決議の後に、もう一度最高法院全体で決議の後に「相談」をしているのです。この相談する姿は、最高法院で決定されたことを、よくよく熟慮し、話し合い、考えたということを表します。綿密な計画を立て、どのようにしてイエス様を死刑にするのか、考えました。そしてその結論として、ピラトというローマの総督、世俗的権力者にイエス様を引き渡していくのです。
このことに関して、ヨハネによる福音書などでは、ユダヤの人々が、ローマの支配下にあって死刑を執行する権限を持っていなかったという理由づけをしています。この考えも確かに考えられる一つの理由です。しかしこのマルコによる福音書においては、それよりも、イエス様の死に対して、ユダヤ人と異邦人が共犯者であるということを強調しているのです。イエス様の死は、ユダヤの民と異邦人によるものであった。つまり、すべての人間によるものであったということです。これはイエス様が予告された通りの出来事であり、人間のすべての者の罪がイエス様を十字架につけていったことを表します。ユダヤの人々はよくよく考え、相談し、そしてイエス様をピラトに引き渡したのです。すでに死刑にすると裁判で決定したのです。その後、どのようにして、イエス様を死刑にもっていくかを考え、計画を立てたのです。その中で、ユダヤの人々は、異邦人であるローマの権力者に引き渡していくのです。このことはユダヤ人も異邦人もすべての者が例外なく、それは今を生きる、私たちも例外なく、すべての人間がイエス様を十字架に付けていったことを表すのです。
イエス様の死はユダヤの民と、そして異邦人の共犯によって、私たちも含めたすべての人間、その罪によって起こされていったのです。
2: ピラトの問いとイエス様の答え
ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」(2)と尋ねます。それはイエス様がローマにとって、危険な政治的革命家であるかどうかを尋ねる質問でした。ピラトの関心と、ユダヤの民の関心は違うものでありました。ユダヤの民にとって大切なのは、イエス様が神を冒涜しているかどうか、宗教的に危険な人物であるかどうかということでありました。しかし、ピラトにとっては、政治的にローマにとって危険な者であるかどうかということなのです。
ここにユダヤの民とピラトの違いがあるのです。しかしこの違いは本質的には何も変わらないものだといえるでしょう。どちらも、自分たちにとって、この人がどのような意味をもつ人間であるのか、自分たちにとって有益な者なのか、それとも必要のない者、むしろ自分たちの立場や権威を脅かす者なのかどうかという目線であります。ユダヤの人々も、ピラトもそのような関心しかありませんでした。信仰によって結ばれているユダヤ人にとっては、信仰を揺るがす危険人物なのか、ローマの総督という権力者ピラトにとっては政治的危険人物なのか。つまり「自分」のためという目線での考えです。
本当に見るべきところ。この人がどのような人であり、何をしているのか。誰のために生きており、そのことが人々に何を語っているのか。そんなことにはまったく関心をもっていない。もっと本質的にいえば、神様に目を向けた関心の寄せ方ではないということであります。ユダヤの民もピラトも、神様を見てはいませんでした。神様の意志、神様の御心を心に留めて、神様が今何をされようとしているのか、神様の思いはどこにあるのかということなど、そのようなことはまったく考えていないのです。そしてこのような神様に目を向けない思い。つまり人間が神様を神様としないという罪、すべての人間の心のうちにある罪が、イエス様を十字架につけていったのでした。
ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」(2)という質問に対して、イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」(2)と答えられました。イエス様が、口を開かれて答えられた言葉「それは、あなたが言っていることです」(2)という言葉は、少し理解の難しい言葉でありますが、とても大切な言葉となっています。
口語訳では、「そのとおりである」と、そして新改訳でも「そのとおりです。」と訳されています。これはピラトの言葉を受けて、その言葉を積極的に認めた言葉となっています。それに対して新共同訳では「それは、あなたが言っていることです」と返答を拒否されたような形となっているのです。英語の訳では"It is as you say." 、また別の訳では"So you say."となっており、新共同訳と同じような言葉となっており、こちらのほうが、実際のギリシア語に忠実な訳となっています。
ここでのイエス様の言葉は間接的でありますが返答を拒否し、そして否定されたとも考えられ、またもう一つには質問者ピラトに答えを委ねたとも考えられる不明瞭な言葉となっているのです。この不明瞭なイエス様の答えが、不明確であることによって、「イエス様とはだれか」ということを考えさせられる言葉ともなっているのです。「あなたにとって、イエスとは誰なのか」。どのような存在であり、どのような意味をもつのか、ピラトに問いかける。そして私たちに考えさせる言葉なのです。このイエス様の不明瞭な答えは、わたしたちに問うのです。「イエスとはだれなのか」。「あなたにとってイエスとはだれなのか」。「あなたにとってどのような意味を持つものとなっているのか」。イエス様の答えは、そのようなことを私たちに問いかけているのです。
3: 積極的、消極的加害者
このイエス様の言葉に続けて、祭司長たちはいろいろと訴えます。(3)祭司長たちはイエス様を訴え続けます。祭司長たち、ユダヤ人は、このイエスというような者が自分たちと民を惑わしていると、そして神を冒涜していると怒りに燃えていました。そしてイエス様を殺そうと、どうにか考え、働き、行動していたのです。それに対して、ローマの総督ピラトはどちらかというと「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」(4)とイエス様に語りかける姿から、それほどイエス様の十字架に対して積極的に働いているようには見えないのです。
この後の箇所において、ピラトがイエス様とバラバとどちらを釈放してほしいのかと聞き、群衆がイエス様を十字架につけろと言う中で、「いったいどんな悪事を働いたというのか。」(14)とピラトが言う姿からも、ピラト自身が積極的にイエス様を十字架につけたというよりは、群衆のご機嫌をとるために、群衆の圧力に押し切られていったという姿を見るのです。
実際にピラトがどのような人間であったのか、少し調べますと・・・実際のピラトは、他の資料においては、「買収、暴行、略奪、虐待、挑発、裁判手続きなしの絶え間ない処刑、意のままのもっともひどい残虐行為」を日常茶飯事として行っていたとされる者であります。特に皇帝崇拝を推し進め、ユダヤ人の考えをくむという姿はなく、横暴きわまりない者であったとも記されています。
今日の聖書に表されているピラトは、その本来の姿からはかけ離れた姿として現されている。本来ならば、ピラトがさっさとイエス様を十字架につけてしまう。そのような者とも考えられます。しかしここでは、イエス様の十字架に対して消極的である。自分の立場を考え、ユダヤの民、群衆の思いをくみ取り、その中でイエス様を十字架につけていく。そのような姿が映し出されているのです。
このことから、わたしたちは積極的な加害者としての姿と、消極的な加害者という姿がどのようなものであるか、考えさせられます。たしかにピラトは、自ら積極的にイエス様を「彼は反逆者だ」「十字架につけろ」とは言いませんでした。イエス様の十字架刑については消極的であり、ユダヤの民の言葉を聞き入れたという形になります。しかし、どれほど消極的であっても、確かにピラトはイエス様を十字架に付けていった一人であります。消極的加害者としての姿。実は、私たちも、多くの場面で、同じようなことをしているときがあるのではないでしょうか。
私たちの生きる社会には、争いが起こり続けています。人を傷つける者がおり、傷つけられる人がいます。いじめる者がいて、いじめられている者がいます。被害者がおり、加害者がいるのです。そして、その周りには、この争いに触れないでいようとする者がいるのです。人が争い、傷つけあっていることに関心を持たない者。見なかったことにする者。そのような傍観者がいるのです。マザー・テレサは、「愛の反対の言葉は無関心である」と言いました。
そのような意味で、このような傍観者を消極的加害者ということができるのではないでしょうか。わたしたちは、自分が直接何か手をくださなくても、手を差し伸べないという消極的な加害者となっていることがないでしょうか。見なかったことにする、知らないことにしておく、かかわりをもたない。面倒なことには首を突っ込まない。そして自分には関係ないものとして、困っている人を見捨てていく。それは、被害者だけでなく、積極的な加害者をも見捨てていることになるのではないでしょうか。争いのうちに和解が起こるように、考えも、見向きもしないことは、ある意味、被害者を見捨て、同時に加害者のことも見捨てているのです。
私たちは多くの場面で、そのような道をえらんでいるのではないでしょうか。今日の聖書の箇所におけるピラトは、まさにそのような私たちの姿、消極的でありながら、たしかに一人のひとを見捨てていく。イエス様を十字架へと送り出した者でありました。困っている人を目の前にして、痛みを覚えている人を見ながらも、私たちが手を差し伸べない時、それはイエス様が十字架につけられていくのを黙認した姿であるのです。
このピラトの姿は、人間の弱さを表しているのではないでしょうか。私たちが、だれかにきちんと関わることは痛みを伴うことです。他者に関わることは、自分の時間、自分の思い、自分の何かを犠牲にしなくてはできないでしょう。人間が積極的に誰かを助けること、そして誰かのために生きることは、それほど簡単なことではないでしょう。それは必ず痛みを伴う行為となるのです。そして人間はそれほど強くはないのだと思います。だれかに関わるよりは、自分のことだけをしているほうを選びとっていく。そのような弱さを持つ者なのではないでしょうか。
そのような弱さを持つ私たちに、神様が示されたのは、イエス・キリストの十字架によって示された、愛の出来事、痛みを伴い、命を犠牲なされた愛の行為なのです。神様は、私たちを愛されました。それは、イエス・キリストの十字架によって示された、共に苦しみ、共に痛み、それでも一緒に生きていこうという愛です。私たちが傷ついているときに、神様は、私たちと共に傷つき、私たちが傲慢になっているときには、私たちの前に立ちはだかり、痛みを持って本当の道への扉を開いてくださっているのです。神様は、私たちのことを見捨てはしなかった。自分自身の命さえも惜しまずに、苦しみ、痛み、それでも私たちを愛し、関わる者となってくださったのです。神様は、私たちを愛するため、一歩踏み出してくださった。私たちを愛する決断をなされたのです。
4: イエス様はそれ以外は何もお答えにならなかった。
5節ではこのように記されていきます。「しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかった」(5) 祭司長たちは、イエス様を積極的に十字架に付けていきました。同様に、ピラトは消極的でありながらも、確かにイエス様を十字架につけていきました。
そのようななかで、イエス様は沈黙されるのです。イエス様はもはや何もお答えにならなかったのです。このイエス様の姿は、イザヤ書53章にある、苦難の僕の言葉を思い起こさせる姿であります。
イザヤ53:1-7
主イエスは沈黙されたのです。人間の積極的な罪の姿、そして消極的でも隣人を見捨てていく、人間の弱さに沈黙されます。私たちの心の奥底にある叫び、「十字架につけろ」という叫び、また「関わりたくない」という思いに、イエス・キリストは、沈黙されました。これはイエス・キリストの私たちに対する「問いかけ」ではないでしょうか。イエス様は沈黙をもって、私たちに問いかけます。「あなたにとってわたしは何者なのか」。「あなたにとって、私は見捨てるべき存在なのか」。「関わるべき存在ではないのか」。「あなたが愛するのは、だれなのか」と。
わたしたちは今、このイエス・キリストの沈黙が問いかける、問いにどのように答えるのか、共に考えたいと思います。今、私たちはどのような道を選びとることができるのでしょうか。神様は、私たちを愛するという道を選びとられました。傷つき、痛み、苦しむ、それでも私たちに関わるという道を選びとられました。愛することは決断です。今、私たちはイエス様の問い、「わたしはあなたにとってだれなのか」という問いに、きちんと向き合い、答えをだしていきたいと思います。
コメントをお書きください