1. ヤコブの悲しみ
ヨセフ物語は今日の箇所でクライマックスを迎えていきます。ユダはベニヤミンのために自分を捨てるのです。これはヨセフの時とは全くの逆の態度でした。もともと自分たちにとって、父の愛を独り占めしていたヨセフを、兄たちは憎み、殺そうとした。そして結局ヨセフはいなくなりました。ヤコブの悲しみはとても大きなものだったでしょう。ヨセフの死、実際には死んではいませんが・・・、ヨセフの死はヤコブの家族を大きく変えてしまったのでしょう。
ヤコブはヨセフを失ってから、ラケルのもう一人の子どもベニヤミンを愛するようになります。ヤコブはベニヤミンを愛した。愛して、離すことなどできないほどであった。「お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。」(27-28)ベニヤミンを愛したヤコブの心には、ヨセフの死が大きく残されています。
死は、わたしたちキリスト者にとっては終わりではありません。死は一つの区切りの時とでも言いましょうか。しかしまた、この世に生きる者にとって、たとえ、死が終わりではないと信じていても、死は、大きな力を持ちます。特に突然の死、予想もしていなかった時期の死は、人間の心に大きな痛みを与えるものでしょう。ヤコブはヨセフの死を受け止めきれていません。親にとって子どもの死は受け入れるには、大きすぎる悲しみと痛みなのではないでしょうか。ヨセフの突然の死は今もヤコブに残っているのです。死が与える一つの区切り。区切りといっても、それは生きている者にとっては、大きな別れの時でもあります。死によって愛する者を失うのです。一緒に生きていくことを願っていた者を失うのです。そのとき、自分の思いを注ぐ者を失うのです。だからこそでしょう。ヤコブの愛情はベニヤミンへと注がれることになるのでした。
42章で、「ベニヤミンを連れてきなさい」とヨセフに言われて、シメオンをエジプトに置いて帰ってきたなかで、ルベンがベニヤミンを連れて行くために。「もしも、お父さんのところにベニヤミンを連れ帰らないようなことがあれば、わたしの二人の息子を殺してもかまいません。どうか、彼をわたしに任せてください。わたしが、必ずお父さんのところに連れ帰りますから。」(42:37)と言いました。自分の息子二人をもって、ベニヤミンを連れて行くことをお願いしましたが、それではヤコブの心は動かされなかったのです。それほどに、ヨセフの死によって、ヤコブの心は痛んでいた。ヤコブの愛は、かたくなにベニヤミンへ注がれることになったのです。
2. 兄弟たちの求めたもの
兄弟たちはヨセフがいなくなることで、何を求めていたのでしょうか。単なる嫉妬心からの暴力であったのでしょうか。兄弟たちの心のうちには「愛されたい」という思いがあったのではないでしょうか。父親ヤコブはラケルを愛しました。そのほかの者、レアもジルパもビルハに対してはそのような思いはなかったのです。ですので、ラケルの子どもを愛したのです。ヤコブはほかの者の子どもたちをどのように考えていたのでしょうか。少なくとも、子どもたちは親に対して「愛してほしい」との願いがあったのではないでしょうか。だからこその嫉妬心であり、ヨセフを取り除いた。ヨセフがいなくなれば・・・ヤコブの愛情が自分たちに向けられないことは分かっていたのかもしれません。それでも「愛されたい」「愛してほしい」という思いを妨げる者は、受け入れきらなかったのでしょう。
そのような兄弟たち、自分たちがヨセフに嫉妬し、いないものとした者たちが、ここでは、ヤコブがベニヤミンだけを特に愛している、そのことを知っていながらも、容認していたのです。『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』(20)『あの子は、父親のもとから離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』(22)「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。」(30-31)
この兄弟の思いの変化は、ヨセフを失ったことにおける、自分たちの罪の重さの意識からでしょうか。ヨセフだけを愛していたことに嫉妬していた兄たちは、その愛が、自分たちに向かうのではなく、ベニヤミンに向けられていたことを、憎しみ、嫉妬してはいないのです。結局、兄弟たちが求めた「愛してほしい」という思いは、ヨセフを殺したという重い罪意識へと変わっていった。そして兄弟たちは、その罪の意識に捕えられた者となっていったのです。
3. ユダの嘆願
ユダは43章で「あの子をぜひわたしと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」(43:8-10)
ルベンは自分の息子二人を差し出すと言いました。しかし、それではヤコブの心は動かされなかったのです。ユダが自分を差し出す中で、ヤコブの心は動かされました。しかしこのヤコブの心は、43:14にあるように、どこかあきらめの心でもあったのです。
「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」(43:14)
そして、実際に今、ヨセフという兄弟たちにとっては、「ファラオと同様の立場、エジプトの支配者」によってベニヤミンが失われるかもしれないという中で、その「エジプトの支配者」に対して、自分を差し出してでも、ベニヤミンを救い出そうとするのです。「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」(44:33)
ユダを代表する兄弟たちは、どのような思いだったのでしょうか。本当の嘆願として、ユダを代表とする兄弟たちの変えられた姿を見ることができるのでしょうか。父ヤコブのため、また弟ベニヤミンのために自分を捨てようとしていたのでしょうか。なによりも本当にベニヤミンが救われることを願っていたのでしょうか。むしろ罪意識に捕えられていた者として、その言葉は自分がこれ以上罪を犯すことのないように・・・父親の悲しみに対する責任感からのものであったのではないのでしょうか。ユダの姿は、罪に囚われた者が自分の責任を負わなければならない。そのような自由のない選択のうちにとっていった行動なのではないでしょうか。
4. 自分を捨てる
ルベン、ユダを筆頭にする兄弟たちは、ヨセフに嫉妬し、いないものとしたのです。しかし、実際にヨセフがいなくなって、ヤコブ一家は悲しみに包まれていったのでしょう。ヤコブは希望を失い、ベニヤミンだけを特別に愛したのです。ヨセフの死によって、ヤコブの心は今まで以上にかたくなになり、ベニヤミンだけを愛したのです。それは、兄弟たちの求めていた家族の姿ではなかったのではないでしょうか。今、ユダは自分を捨てる道を選びます。それはどこまでの気持ちであったのかはわかりません。しかし、この行為によってこの後の話、ヨセフとの再会へと続くのです。
この姿はイエス様の言葉につながります。マルコ8:34-35「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
死と悲しみは、人間の自己中心的、利己的思いによって連鎖します。それは「愛されたい」という思いの連鎖であるのではないでしょうか。「愛されたい」。だから、何か愛されるためのものを手に入れる。自分を愛したい、だから名誉や財産を求める。権威を持つことで、「愛される」価値のあるものになる。そのような思いの中心には、やはり「愛されたい」という思いではないでしょうか。同時に、自分を捨てること「愛する者となる」ことによって、悲しみの連鎖は打ち破られるのでしょう。
「愛する者」となる。それは神様に愛されているということを知るところから始まります。ユダは、自分が奴隷になることで、ヤコブ一家の負の連鎖を打ち砕いていくのです。神様はイエス・キリストの死によって、人間の生み出している悲しみと死の連鎖を打ち破られたのでした。神様と人間の関係はイエス・キリストによって回復されたのです。私たちはこの神様の愛に与る者とされていきたいと思います。
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