1. 死んでいた者との出会い
ヨセフは「わたしはヨセフです」と表しました。兄弟にとってこれはどれほどの衝撃だったでしょうか。兄弟にとって死んでいた者、死んだと考えていた者が、突然目の前に現れたのです。
これは十字架のイエス様が復活したときに出会っていた女性たち、また初代教会が体験した驚きや恐怖と同じ感覚があるのかもしれません。また、私たちがイエス様に出会っていくときと同じような感覚でしょうか。死んだ者と新しい出会いです。関係が断絶した者との衝撃的な出会い、和解とも同じような感覚があるのかもしれません。
自分たちが殺したともいえる弟が現れたのです。兄弟にとっては驚きと恐怖の出来事であったでしょう。兄弟がヨセフと出会った時の「恐れ」は、十字架の上に死んでいったイエス様と私たちが出会うときの「恐れ」に似ているものでしょう。わたしたちは十字架のイエスとの出会いに、それほどの「恐れ」をもっているでしょうか。自分たちの罪、関係の断絶のうちに、殺していった者、存在を否定した者が、目の前に現れたのです。私たちは十字架のイエスとの出会いにもっと「恐れ」を知るべきでしょう。自分たちが打ち消した者が現れたのです。
ヨセフには「ツァフェナト・パネア」というエジプト名が与えられていました。この名前は、ヨセフのエジプトでの地位と権威を表していたでしょう。しかしヨセフは「わたしはヨセフです」と言ったのです。
これまでは様々な難問を突き付けてきた、エジプトの監督官であった人が、「ヨセフ」として現れたのです。それはエジプトの権威者ではなく、神に与えられた「家族」「兄弟」として、ヨセフが自分を表したということです。「ヨセフ」とはイスラエル人であり、ヤコブの息子、12人の兄弟の11番目の息子、みんなの弟として自分を表したということです。
2. 神様の主権
ヨセフは「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」(5)と兄弟に向けてわざわざ言い、自分を売ったことをもう一度思い出させます。すこし嫌味にも聞こえますが、そのすべてに神様の働きがあったとも語ります。兄弟が悪意をもって起こした行動にも神様は働かれたことを語るのです。
ヨセフとの出会いは、ヤコブ一家の未来を切り開きます。ここに神様の働きがあるのです。ヨセフは「神がお遣わしになった」(5、7、8)と何度も語ります。兄弟たちの行為も神様の御心とされ、神様の働きのうちにあったと理解するのです。
神様は、人間の行為を通して働かれます。すべての創造主なる方は人間を造り、そこに自由を与えました。そして人間の自由な行動を通して、自らの創造の業を続けられているのです。ここに神様の御業の主権性と被造物の自由が調和されて表されるのです。それは神様が私たち人間のことを理解して、受け入れてくださっているということ、「愛」を表します。理解し、受け入れることはとても難しいことです。理解できない、間違ったことをする者の行為を「間違っている」と教えながらも、無視せず、尊重し、自ら間違いに気づき、改善することを期待する、そのようなことを続けることは、親でもいつもできることではないでしょう。神様は、私たち人間の行為を尊重しつつも、いつも愛し目を注ぎ続けられておられるのです。そこに起こされるさまざまな人間の行為は、神様が見て、受け入れられたものです。そして神様はいつも私たちの行為に期待しつづけられているのです。
3. 命を救うために
神様の主権的働きは「命を救うため」という方向性を持ちます。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(5)「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」(7)
神様は命を救うために、生き永らえさせるために働かれます。これが神様の主権的働きです。神様は人間のあらゆる行為を通して働かれます。そしてそこには「命を救う」という意志をもっておられるのです。神様の働きは神秘的であり、隠されたものです。このヨセフの物語はこの神様の働きの神秘性をも伝えています。そして同時に命を救うという意志をはっきりと表されているのです。
「急いで父上のもとへ帰って、伝えてください。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません。』(9-11)
ヨセフはヤコブ一家の暮らしを守ることを約束し、エジプトに来るように勧めます。ヨセフがヤコブの生活を守るものであるように語られているのです。しかし、このヨセフの背後にも神様が働かれていることを覚えておきたいと思います。「命を救う」神様の働きです。そして「命を救う」ために、神様はこの世界にイエス・キリストを送られました。そしてその死によって人々に慈しみを示し、その復活によって「希望」を表されました。「命を救い出す」方は、今も働かれています。テロや紛争といった破壊的行為が続くこの世界ですが、このような世界にも神様は「命を救う」方として働かれている。復活の主が希望を指し示しているのです。神様の主権性は私たちの希望です。人間的限界を超えて神様は新しい命、新しい道を造られるのです。
4. 信仰
ヨセフ物語では、神様の主権性は、神様の大きなこの世に対する介入を通しては語られていません。この物語は神様を信じ続けた信仰によって、神様が表されるのです。今、私たちの目の前に、神様が現れ、イエス・キリストがこの世におられたら・・・どれだけの人がキリストを信じるでしょうか。しかし今、私たちの目に見える形で神様はおられません。
Ⅰヨハネ4:12
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(12)神様は私たちを愛してくださっています。「神は愛」なのです。「愛する」ことは目に見えるものではないのです。わたしたちは目で見るものよりも大切なものを神様に示されているのではないでしょうか。神様がイエス様を愛し、イエス様が神様に従い続けた。ここに愛するという関係が示されているのです。わたしたちは神様に愛されているのです。この愛にとどまり続けるという信仰によって、神様を表していきましょう。
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