昨年、幼稚園の園庭の李(すもも)が沢山実りました。私が牧師館の庭に植えたサクランボはほとんどだめで、梅の木も花が少なく、実もなっていません。剪定のタイミングの悪さでしょうか。幼稚園では毎年イネを育てています。春には、先生たちが土を造っていました。幼稚園の子どもたちに、私たちのいのちは、世界環境から与えられる豊かなものによって養われていることを教えることは大切なことです。人間にとって生きる上で、周りの世界の存在は必要不可欠なものですあり、世界は神と人が共に働く「舞台」のようなものです。今朝は神の天地創造物語の第2日目と第3日目の出来事を味わってみましょう。特に、種を持つ草木の存在について、驚きと感謝をもってに耳を傾けてみましょう。
1.「分けること」
6節には、「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』と言われています。この「分ける」ということは、第一日の創造においても、光を創造され、光と闇を「分け」、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたとあります。人間にとって「分けること」つまり、「分別」(ふんべつ)は知恵の始まりです。年齢によってクラス分けしたり、色によって分けたり、性別によって分けたりします。種類によって分別(ぶんべつ)します。もともとは「分離し、距離を持たせる」という意味なのでしょう。あるべきものをあるべき処に置くという「秩序」の大切さをも意味しているのです。このような人間の知恵は、どこか神の知恵に通じるものがあるのでしょう。「分ける」ことは神にとっても人間にとっても大切な働きなのです。
2.大空の創造
「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」。私たちは海を見る時、水平線と空が繋がっているように見えます。しかし、実は大気の中にも水分があることを知っています。飛行機雲が良くできる時は空中に水分が多く、次の日には雨になるとも言われています。
しかし、古代の信仰者たちは、地球は、半球状の、つまり、ヤフオクドームのような固くて透明なドームの覆いがあると考えていたようです。「ラーキーア」とはハンマーで打ち伸ばされたものを意味するのですが、「堅い」というところからラテン語ではfirmamentum と呼ばれ、大空と翻訳されています。このドームの上にも水があり、そのドームの窓というか扉というか、それが開けると雨が降ってくると考えました。ノアの洪水物語では、「大いなる深淵の源がことごとく避け、天の窓が開かれた」と表現されています。透明の堅いドームがあるので、そこに溜まっている水の色で空は青く見えるというわけです。詩編29:10では、「主は(天の)洪水の上に御座をおく」と語ります。素敵な想像力ですね。ここで、神様は、「アーサー」=職人、彫刻家あるいは芸術家のように働き、1節の「創造する」=「バーラー」とは区別されています。超越的な神が天地万物を創造されるのですが、また、職人、芸術家のように、直接、大空の造形に携わるのです。さきほど、天の大空の窓が開くと雨が降ると考えていたと申しましたが、神がこの大空によって上の水と下の水を分けて下さっているからこそ、人は生きることができるのです。梅雨の後半には良く大雨が降りますが、人の生活はちょっとの長雨で混乱させられ、日照りで雨が降らなければ渇水や干ばつとなり、人は生きていくことができないのです。古代の信仰者は自らの弱さ、小ささを自覚し、また、神が大空ドームによって雨を調節して下さっていることに感謝したのです。
3.海と陸を分けること
次に、「神は言われた。天の下の水は一つ所に集まれ。乾いたところが現れよ」。現在の科学的知見では昔、陸地は一つであり、地球のマントル、マグマを覆っている地表がマントルの対流の動きによって現在のような地形になったというわけです。世界地図を見ますとパズルのように一つの大きな陸地を想像できますね。伊豆半島はフィリピンの方から少しつづ日本に近づいてきて、日本列島とドッキングしてその衝突で富士山などが出来上がったという壮大なドラマです。日本列島の地下ではそのようなフィリピンプレート、太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレートなどがぶつかっており、そのひずみが地震の原因になっているそうです。まあ、それでは地震の説明にならないという学者もおりますので、それは学者さんの論争に任せましょう。ここで、重要なことは、神が海と陸の境界を設定しているという信仰です。詩編104:9では「あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」と言い、5:22には、「わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず、とどろいても、それを越えることはできない」と語ります。私たちは津波の恐ろしさをテレビで目の当たりにしています。ある漁師の言葉が忘れられません。津波で家族の命を奪った「海が憎い」ということばです。豊かな魚介類を与えてくれた恵みの海であったはずなのにということでしょうか?キリスト者からすれば海は神ではない。人間にとっては豊かな恵みを与える一方で、時に恐ろしい牙を剥くというのは当たり前のことなのですが、怒りをどこに向けて良いか分からない人の気持ちは共感しますね。その他、地球温暖化で海水面が上昇し、沈んでしまう島の話を耳にしますし、水の都ヴェニスは毎年のように冠水しています。臭い匂いが漂っているのが現実です。人がよほど注意して贅沢な生活をコントロールしないと、海と陸地の境界線の変化によって人が生活できなくなることも起こるのでしょう。聖書はまさに神の言葉として、現在に生きる人々にも大切なことを教えているのではないでしょうか。神は海と陸を分けられたのです。
4.種を持つ草と、種を持つ実をつける果樹
11節には、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」。この節も実に興味深い節です。今度は神は深見照明さんのように職人として何かを造りだすという形では働きません。ここで主語は「大地」です。大地に命じて、「芽生えさせと」と言われます。これは土そのものに草や木を生えさせる持続可能な生産力を与えたおられることを意味しています。
わたしは、初めて聖書を読んだときに「しつこい」という印象を受けました。11節に、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と言われ、12節にも、「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた」とあり、三度、29節には、「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すでてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べものとなる」と言われます。草木でいいじゃないかと思うのですが、実は、この「種」に秘密があるのです。「地は草を芽生えさせよ」。口語訳では「青草」と翻訳された「エーセブ」は発芽したての柔らかい気取り一般のことです。フォン・ラートというドイツの旧約聖書学者はこの節を「地は緑のものを萌え出させよ。すなわち、種をつける草をその種類ごと、また、中に種のある実をつける果樹をその種類ごとに。地の上に」と翻訳しています。つまり、3種類がここで語られているのではなく、種をつける草(デシュ エーセブ)と木(果樹 エイツ フェリ)が問題にされているわけです。ここでは「種」という文字は単独では登場せず、「ザーラ」=種をまくという動詞のヒフィール形というヘブライ語が用いられており、一方は種を産み出す草、もう一つの緑は、実の中に種をつける木ということになります。神は地に命じて、このような種を持つ草と木を生じるようにさせておられるのです。
5.神の働きに驚き、感謝すること
なんと不思議で、喜びに満ちた言葉でしょうか。余った一粒の麦やコメを播くと、それが、主イエス様が言われるように、「育って実を結び、あるもとは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)。その種、穀物を食べて人は養われ、残った種を播くとそこからまた、三十倍、六十倍、百倍もの実りが約束されているのです。びわでも桃でもサクランボでも、梨でも柿でも美味しくいただき、種をプイと捨てると(西瓜の種飛ばし!)、あら不思議、そこから、またまた豊かな果樹が取れるのです。人間が造りだすもので、これほど素晴らしいものがあるでしょうか?先週はIPS細胞を他者の細胞から増殖させ、目に移植させるプロジェクトが始まったというニュースを目にしました。加齢による黄斑変性の人には朗報でしょう。しかし、食べて、捨てた種が、また、余った種が、再び、根を生やし、芽を出し、種や実をならせるというような不思議なものは、人間には決して作れません。人はもっともっと神に、神の知恵による被造世界に感謝しなければならないのではないでしょうか。
しかし、農作物が工場生産品のようになり、米国では、土壌汚染と土壌流出が続いていると言われています。日本でも休耕田で農地が荒れています。農薬漬けになったり、欲張って、来年のための種や実まで食べてしまうというようなことはないでしょうか。1000兆円を超える借金経済、そして、1日300万食の食料を廃棄処分している日本文化は果たして持続可能な文化なのでしょうか。
私たちは、種を生じて持続可能な草木を産み出す環境の豊かさを忘れ、思い上がって自分で自分の首を絞めないように、古代の信仰者からもっと学ぶ必要があるのではないでしょうか。草木は人がいなくても存在可能ですが、人は種を産み出す草木なしでは生きることはできないのです。もっと謙虚に生きること、足りて満足すること、少し足りなくても我慢し隣人と分かち合うことを学ぶべきでしょう。人間はある意味で最後に創造された最も進化した優れたものではありますが、それだけに最も他の被造物に依存している弱い生き物であることを決して忘れてはなりません。(松見俊)
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