今日の題は「愛しなさい~繰り返し教える言葉~」としました。人を愛すること、となりの人を大切にすることは、耳で聞くだけのときに、「あたりまえ」「当然のこと」と思うかもしれません。しかし、よく周りを見渡してみましょう。私たちが生きるこの世界は、本当に愛に満ちているでしょうか。むしろ、だれもが、「隣の人を大切にしなければならない」ということをわかっていながらも、隣人のことを愛することができていない。そのような現実があるのではないでしょうか。
だからこそ、聖書は教えるのです。「愛しなさい」と。そして「愛することができますように」と祈り続けなさいと教えているのです。繰り返し、繰り返し、「愛しなさい」という言葉を受け取り続けなさいと。そしてそれはまず「あなたが神様に愛されている」ということを覚え、信じなさいということでもあります。
少し、私たちは自分が、隣人を愛しているか考えてみましょう。一番身近なところで、まず子どもたちや家族を愛しているでしょうか。そして会社や、学校、ママ友、近所の人をどのように見ているでしょうか。そしてもっと視野を広げて、自分たちが生きているこの日本、その人々。そしてアメリカなど先進国の人々。また東南アジア、アフリカといった、貧しいとされる国々の人々。そして内戦によって苦しみ生きるアフガニスタンにシリアといった状況にある方々。そしてわたしたちからすればとても偏った考えを持つとされる、北朝鮮やイスラム国の人々。
そしてなによりも自分自身。わたしたちは「愛する」ことを考えてみましょう。わたしたちは自分を愛しているでしょうか。そして隣の人を愛しているでしょうか。
1: 聖書の教える信仰の基本
今日の箇所で、神様は「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と教えられます。この4節、5節の言葉は、イスラエルの民にとって特に大切なものとして、毎日、朝夕と、祈るものです。まさに信仰と生活の基本の言葉、聖書の中心的言葉なのです。イスラエルの民は、信仰の基本である、この箇所の写しを、8節9節の指示通り、腕や額に結びつけ、また家の門柱に打ち付けている。それは今も変わりなく続いています。ユダヤの人々は今でも、信仰の基本であるこの言葉を、生活の中で、家庭でも、家の外でも、起きる時も、寝る時も、頭から離れることがないように、そして、自分たちがしっかりと神様に従うことができるようにと、守り続けているのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4-5)
今日の言葉は、わかりやすく言いますと「全身全霊をもって、神様を愛しましょう」「神様を愛するために生きていきましょう」ということです。このことばは現在のキリスト教においても、聖書の中心的言葉、聖書の教えるキリスト教の信仰の基本と言える言葉です。
2: 聖書の言葉の広さと中心点
聖書にはさまざまな言葉が記されています。その中でも、教えたいことはそれほど難しいことではありません。それは「神様はあなたを愛している」ということです。あなたは愛されている存在である。神様はあなたを必要としており、あなたの存在を喜んでおられるということです。
前回、私は、「愛する」ではなく「信じる」ということをお話しました。すべては「神様があなたを愛している」ことを「信じる」ことから始まるという話です。神様はあなたを、それは皆さん、一人ひとりがそれぞれに違う人間として、それぞれの違う人格を持つ、神様にとって大切なたった一つの命として、その存在が愛されている。大切にされている。このことを信じましょうというお話でした。そして今日の話は、説教の題にあるように「愛しなさい」という話です。神様に愛されている私たち。私たちが生きる道は「神様を愛する」道ということです。「神様を愛する」。そして「隣の人を自分のように愛しましょう」ということ。これが聖書の中心的言葉です。聖書では、では愛すべき神様とはどのような方であるのか。神様は、私たちのことを愛されているのか。その愛とはどのようなものなのか。そして、となりの人はだれなのか。隣の人を愛するとはどういうことなのか。
そのようなことを教えているのですが・・・中心的な言葉として「あなたは愛されている」そして、だからこそ「神様を愛しましょう」そして「隣の人を愛しましょう」という言葉があるのです。
聖書には様々な言葉があります。いくつか挙げてみますと・・・マタイ11:28の言葉として「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この言葉は、キリスト教を信じていない人でも、心が疲れているときに、ホッとさせるような言葉かもしれません。それに対して、同じマタイによる福音書でもこのような言葉もあります。マタイ10:34ですが「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」この言葉は、とても攻撃的で、このような聖書の箇所を耳にしたときに、キリスト教に対して否定的な感情をいだくのではないでしょうか。しかし、聖書の前後の文章から読んでみますと、基本的には、この二つの言葉は、どちらも、同じこと伝える言葉なのです。前者の言葉の語っていることは、「わたしのもとに来なさい。」、「イエス・キリストのもとに来てみなさい」という意味です。つまり神様を信じ、神様に自分を委ねることを勧めているのです。そして後者の「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という言葉の意味としては「イエス様がこの世にきたのは、人間の造りだしたこの世的価値観、社会的ルールに捕われて苦しむ者を救うため。誰かを踏みにじってでも自分が幸せになろうとする、見せかけの平和ではない。それはこの世にとって、人間的な思いとは異なるものであり時に「剣」となるだろうが、本当の平和を求めなさい」ということです。
つまり、意味としては、前者と同じ、「神様の愛を信じる」こと、自分本位になるのではなく、神様を信じて、神様の愛をいただくことを教えているのです。聖書の言葉、御言葉は、一貫して、同じメッセージを送っています。どの御言葉も「神様はあなたを愛している」。「あなたはどれほどの者であったとしても、神様は無条件にあなたを愛している」ということであり、「この神様の愛を信じて受け取りなさい」。というメッセージが送られているのです。これが聖書の中心点であり、その意味です。
3: イエス様の言葉
この「神様があなたを愛している」という言葉に続けて、聖書が教えていること、それが今日の御言葉、「愛しましょう」という言葉です。聖書は「神様を愛しなさい」そして「隣人を愛しなさい」と教えます。イエス様もこの御言葉を覚えて、大切にしておられました。イエス様は、この言葉を用いて、このように語られたのでありました。
マタイによる福音書22:37-40「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」「神様を愛する」そして「神様を大切にする」ということ、それは「隣人を自分のように愛する」ことで表されるのです。そして、なによりも、「となりびとを愛する」ことを一番に実現された方がイエス・キリスト、ご自身であります。
先ほど、聖書では、では愛すべき神様どのような方であるのか。神様は、私たちのことを愛されているのか。その愛とはどのようなものなのか。そして、となりの人はだれなのか。隣の人を愛するとはどういうことなのか。
これらの疑問に答えを与えてくださったのが、イエス様です。神の子であるイエス・キリストが、私たちを隣人として愛してくださった。そしてその愛は、十字架という形で表されたのです。神様は無条件に人間を愛されました。その形として、御子イエス・キリストがこの世に来られたこと、そして私たちのために十字架の上で死なれたということ。それは、どれほど、私たちが苦しみの中にあっても、隣にいて、私たちと共にいてくださるということを表されたのです。イエス・キリストは、私たちと共におられるのです。神様は無条件に人間を愛し、そして共に生きる決心をなされた。このことが示されたのが、キリストの十字架という出来事なのです。
4: 教え続ける言葉
聖書はこのように教えます。6:6-7「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」
今日は家族礼拝です。東福岡幼稚園は、キリスト教保育を一番の教育方針としています。キリストの愛、「愛されている」ということ、そして「愛する」ということを一番に教えたいと考えているのです。時々、こどもに聞かれて困ってしまう言葉「なんで」「なんで」「なんで」と、子どもはとっても純粋に、探究心をもって聞いてきます。なんで、人にやさしくするのか、なんで、ケンカをしたときは謝る必要があるのか、なんで、自分と違う考えの人と一緒にいる必要があるのか。もっと進むと・・・なんで生きているのか、なんで地球を大切にするのか、なぜ、愛する必要があるのか。キリスト教では、この根底に、「神様が私たちを愛されたから」・・・わたしたちも「隣人を愛する」という言葉があるのです。神様は人間を愛されました。私たちは、この神様の愛を信じるのです。「神様を愛する」とは・・・愛なる方、愛を注いでくださる方を信じて、その愛を受け入れることです。私たちは、愛されている。この愛を受け、隣人を愛する道を進んでいきたいと思います。
「愛すること」は簡単なことではないのです。ただ仲良しの人と、仲良く生きていくことではありません。時には痛みや苦しみを伴うものでもあります。それでも私たちは「神様に愛されている」ということ、そして「隣人を愛し」この「愛を伝え」、「一緒に生きるということ」を携えて生きていきたいと思うのです。そしてこの「愛する」という生きる指針を、子どもたちにも教え、子どもたちと一緒に考え、子どもたちからも学び、歩いていきましょう。(笠井元)
コメントをお書きください