1 出エジプトという出来事の準備として
ヨセフの兄弟が来たという知らせがファラオの耳に入りました。この出来事をファラオも家来たちも喜びました。そしてファラオはヨセフに家族のエジプトへの移住を勧めます。これは9節からヨセフが兄弟に伝える言葉と重なります。ヨセフは家族にエジプトへの移住を勧めます。そしてここではファラオがヨセフの家族の移住を勧めるのです。
『家畜に荷を積んでカナンの地に行き、父上と家族をここへ連れて来なさい。わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。』(17-18)『エジプトの国から、あなたたちの子供や妻たちを乗せる馬車を引いて行き、父上もそれに乗せて来るがよい。家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから。』」(19-20)
ファラオも、その家来たちもヨセフの家族が来ることを喜びます。このファラオの勧めによって、これまでヨセフだけがエジプトに住んでいましたが、今回ヨセフの父、ヤコブの一家がエジプトに住み移ることになります。この出来事をファラオ、そしてエジプトという国が受け入れることによって、このあとの出エジプトという出来事がイスラエル全体の出来事、そしてエジプト全体となることを作りだしています。
この場面で、神様に選ばれたイスラエルの移住であり、この出来事によってこれからの出エジプトの時を準備しているのです。ヤコブという「家族」の移住は、こらから起こる出エジプトの出来事に対応して、出エジプトの時にも、かぎられた人の移住ではなく、ファラオの決断によって、エジプトの国全体の出来事、そしてイスラエルという国全体の出来事となったのです。
2 祝福
この箇所において、神様の祝福はヤコブ一家を現実の祝福へと導きます。エジプトが、ヤコブ一家を祝福して「わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。」(18)と語るのです。
本来、エジプトが、ヨセフの兄弟だからと言って、イスラエルの人々をこのようにすんなり受け入れることは考えられないことでした。「当時、エジプト人は、ヘブライ人と共に食事をすることはできなかったからである。それはエジプト人のいとうことであった。」(43:32)
もともとエジプト人とヘブライ人は一緒に食事をすることも出来ないほど、エジプト人はヘブライ人を蔑視していたのでず。そのような中で、なぜこのようにエジプトがこれらの者に対してこのような行為を行ったかは、今日の箇所では記されていません。どうしてファラオが、そしてエジプトがイスラエルに対して態度を変化させたのでしょうか。
いろいろなことが考えられます。ファラオがヨセフのことをそれほどに認め、大切にしていたということでしょうか。それとも政治的にヨセフの兄弟たち、その家族を、これからエジプトのための使い物になる者たちとして受け入れたのでしょうか。今日の箇所からわかっているのは、ただ最良のものがイスラエルのためにあたえられたということです。
ここにおいて、飢えていた者が豊かとされ、空腹を満たされたのです。この出来事は、エジプトの政策、ファラオの思い、意志と考えるよりも、神様からの贈り物と考えるのほうがよいと思います。
神様がヤコブ一家を選びだし、貧困から救いだし、エジプトに新しい姿勢をとらせ、豊かにされたのです。これは神様の出来事であると考えたいと思います。神様は、新しい命と共に、新しい人間関係、新しい祝福を与えられました。エジプトがこのようにヤコブ一家を祝福するのは、神様の祝福の中で与えられた出来事なのです。そしてそれは新しい人間関係への解放、導きを示しているのです。
3 途中で争わないでください
いよいよ兄弟たちを送り出すとき、出発にあたってヨセフは、「途中で、争わないでください」と言いました。(24)
ヨセフは兄弟によってエジプトまで売り飛ばされてきました。兄弟たちは、憎らしい弟をどうにかしてやりたいとは思っていたものの、実際にヨセフがいなくなってから、その罪意識の中で苦しみ、また罪をなすりつけあってもいました。罪の意識の中には争いがあり、憎しみあいがあったのです。
創世記42:21-22
互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」すると、ルベンが答えた。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
実際に長男ルベンはほかの兄弟たちに罪をなすりつけています。兄弟たちは、それぞれにヨセフを殺した者として、罪の意識のうちに生きていたのでしょう。そのような兄弟たちにヨセフは罪をなすりつけあう時は終わったことを知らせているのです。「争う時」は終わったのです。
4 ヤコブという人間
兄弟たちはヤコブにこのことを報告します。ヤコブは「彼らの言うことが信じられなかった」(26)のです。ヤコブが信じたのは「ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた」(27)からでした。ここにヤコブという人間の人間性を表しています。以前には「この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。「もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。」」(43:1-2)43章でも、実際に物質的に苦しくなってから、ヤコブは決断するのです。シメオンが捕えられていようが、そんなことよりも目の前の食料がなくなったということが、ヤコブを決断させたのです。今日の箇所では、「ヨセフが遣わしたヤコブのための馬車」を見たことで信じたのでした。ここにヤコブの人間性が浮き彫りに表されるのです。
イスラエルの人々は、自分たちの祖「イスラエル」「ヤコブ」のこの姿から何を学び、どのようなことを考えていたのでしょうか。
このヤコブの姿から、人間にはだれにでも「弱さ」「自己中心的思い」があることを学んでいたのでしょうか。それともそのような「イスラエル」をも愛した神様の大きな愛を感じとっていたのでしょうか。少なくとも、このような人間性を持つ者、疑い深く、人を信じることができない者、兄を出し抜き、兄から祝福を奪い取り、レアとラケルと結婚しながらも、ラケルだけを愛し、その子どもヨセフとベニヤミンだけを愛した。そのようなヤコブ、どうしようもない者をイスラエルとして神様が選び出されたということに、神様の偉大な愛の大きさを感じ取っていたのではないでしょうか。
5 ありあまるほどに
兄弟たちからの報告を受けた時にヤコブは「気が遠くなった」と記されています。知らせを聞いたヤコブは死にそうなほどの喜びとショックを受けたのでしょう。そしてその知らせは新しい命を得て生きる者へと変えていく知らせでした。自分が死ぬこと、父親、母親が死ぬことよりも、自分の子どもが死ぬことは大きな悲しみかもしれません。自分の子どもが死ぬことは受け入れがたい出来事です。
「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」(28)ヤコブは最後に「よかった」と言います。これは口語訳では「満足だ」新改訳では「十分だ」となる言葉です。そして「ありあまるほどの」とも訳すことができるのです。このときヤコブはいまだヨセフに会っても、触れても、話してもいません。しかし、「ありあまるほどに」神様が恵みを備えて導いてくださっていたことを、受け取るのです。ヤコブは、新しく命を与えられ、元気を取り戻した、力を与えられたのです。
このヤコブの姿は、新約聖書のイエス・キリストの復活の姿に出会う弟子たちの姿と重なります。弟子たちはイエス・キリストの復活に出会ったときに、驚き、戸惑い、それでもそこから新しい力を受け取っていったのです。新しい命は「ありあまるほどの」生きる希望を与えます。私たちもイエス・キリストとの出会いによって、ありあまるほどの新しい命をいただきたいと思います。イエス・キリストは、私たちの命を与え、新しい希望を与えてくださいます。私たちは、このイエス・キリストに委ねて生きていきましょう。
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