1 ヤコブのエジプト下り
ヤコブ(イスラエル)は一家を挙げて旅立ちます。35章において、ヤコブはベテルからヘブロン(マムレ)に移住しました
今日の箇所のこのときどこに住んでいたのか、それは兄たちの言葉に「カナン地方から来ました」とは出てきますが、そのどこに住んでいたのかは記載されていません。とりあえず、このときヤコブはおおざっぱに「カナン地方」に住んでいたとだけ言うことができます。そこから「旅立った」といっても、カナン地方の一部であるベエル・シェバ、つまり、旅をし始めたすぐそこにおいて、まず神様に礼拝を献げます。そのベエル・シェバで神様が現れるのです。
ヤコブが神様と出会う時、それはいつも旅の途中です。28章のエサウからの逃亡の旅の時、32章のペヌエルでの格闘の時、ヤコブと神様が出会うのは、旅の途中でした。
旅の時、それはヤコブの人生の分かれ道、道を求める時でもあります。父イサクのもとから離れ、母リベカの兄のもとといっても、まったく知らぬ場所に行くときに、神様に出会います。そしてペヌエルでの格闘の時とは、ヤコブがエサウと再会する時、つまり過ちを犯した、その相手に赦していただくための大きな出来事の時、もう一度新しい道を踏み出すときでもあります。
今回は、神様の約束の地から離れ、エジプトに行く場面です。それはある意味、神様が約束されたことから離れるとも考えられる旅立ちです。ヤコブの心には、さまざまな思いがあったのではないでしょうか。神様の守りのうちに守られていたヨセフ。そのヨセフが神様の導きとしてエジプトに呼び出している。この出来事を神様の御心とみるのか、それとも、神様の与えてくださった約束の地にとどまることが神様の御心なのか。心のうちに戸惑いや迷いがあったのではないでしょうか。そのようなヤコブが旅立った時。それは旅立ったといっても、いまだカナン地方にいる中で、ヤコブが「いけにえをささげた」という礼拝の後に、ヤコブは神様に出会います。ヤコブの心の戸惑いの中にあって、礼拝を捧げました。そしてそこに神様が現れて、呼びかけてくださるのです。
2 神顕現
ここで話としてはヨセフの物語から、ヤコブの物語へと引き戻されています。ヨセフ物語の中に、ヤコブとしての物語が入り込んでくるのです。このヤコブの物語とヨセフの物語が記された時代としては、ヤコブの物語のほうが古い物語に属するものとされ、神様の現れ方もの異なるものとなっているのです。ヤコブには何度も神様からの直接的な働きかけが起こされます。それに比べ、ヨセフの物語では、神様の直接的な働きかけというものではなく、「夢のときあかし」ということから語られるのです。ヨセフの物語の時代においては、人々が神様からの直接的な働きかけよりも、「夢」によるものなど、神様の間接的な働きかけを表しているのです。
3 神様との約束
神様は「ヤコブ、ヤコブ」と呼びかけます。神様の言葉は、ヤコブがエジプトに行くことの正当性を語るものでした。約束の地を離れることによって、約束が破たんするのではなく、この道が神様の示される道であること、約束の地に必ず連れ戻すということを教えるのです。また「大いなる国民にする」(3)という言葉は、12章において神様がアブラハムに約束された言葉です。神様はアブラハムに「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福する」といわれました。エジプトに行くことが、この約束を破ることになるのではなく、この約束は守られ、続くことを「大いなる国民にする」という言葉で表します。
神様は「わたしがあなたと共にエジプトへ下る」(4)と語られます。神様が共にエジプトに行くと語られます。「わたしがあなたと共にいる」。これは信仰の一つの中心点でもあるでしょう。どのような道に行っても、「主が共におられる」というのです。約束の地から離れても、その離れた場所にあっても「主は共におられる」、「主が共に来てくださる」というのです。「どこに行っても神様が共におられる」。「わたしがあなたと共にエジプトへ下る」。この言葉は、私たちに「神様が共におられる」ことの意味をもう一度確認させます。「神様が共におられる」ことは場所や時間に捉われるものではないのです。私たちが何をしているのか、どこにいるか。ということに先だって「主は共におられる」のです。
4 ヨセフへの相続
続けて「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(4)と語られました。「連れ戻す」という言葉は、今回旅立つ、この道において、神様が共におられるということ、そしてエジプトに下ることは神様の御心であるということを語りながらも、それがこれからずっと留まるべき場所ではないことをも表しています。エジプトが住むべき場所ではなく、「連れ戻す」といわれるように「カナン地方」「約束の地」こそが本来、留まるべきところであることをも示します。
また、「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」といいますが、この言葉は、ヤコブからヨセフへの相続の承認としての言葉となります。ヤコブへの祝福はヨセフへと受け継がれていくのです。「ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう」とは、神様の祝福はヤコブからヨセフへと続くことを保証する言葉なのです。まもなく目を閉じるであろうヤコブです。ヤコブにとって、エジプトに行くということは、エジプトの地において死を迎えることを覚悟しなくてはならない時でありました。そのような覚悟をもった決断の中で、「死をみとるもの」「祝福の継承者」としてヨセフがいるということ、そして「必ず連れ戻される」という約束は、ヤコブに大きな安心を与える言葉となるのでしょう。
5 エジプトでの生活の保障
「ヤコブはベエル・シェバを出発した。イスラエルの息子たちは、ファラオが遣わした馬車に父ヤコブと子供や妻たちを乗せた。」(46:5)
ファラオが遣わした馬車に乗っていくことは、エジプトにおいても、ファラオの権力によって守られたものとされていることを表します。ヤコブは神様の御心として、神が共におられるというもとにおいて、そのうえで、ファラオの権力にも守られた者として出発します。ファラオの馬車は。ヤコブがエジプトにおける生活の保障をされていることを表すのです。ヤコブは神様との約束のもとに、エジプトの権力に守られた者としてエジプトに下ります。ここにはヤコブの狡猾さ、慎重な性格を見ることができます。今日の箇所は、ヤコブにとっては大きな決断のときでもあるでしょう。約束の地から、エジプトに向かうのです。この大きな決断のときに、エサウと出会う時に、何度も贈り物をしたような、ヤコブの慎重さが表されます。
わたしたちは何かを決断するうえで、どこに基準を置くのでしょうか。それぞれ小さな決断から大きな人生の別れ道となる決断まであります。そのような時にどこに神様の御心があるのか悩まされます。それは教会という信仰共同体としても同じことが言えるでしょう。教会としての決断、新しい出発のときにも、神様の御心がどこにあるのか悩まされます。教会員同士にも考え方が少し違えば、目指していく道も変わるかもしれません。
私たちは、もちろん神のみに信頼し、神様にすべてを委ねるのですが、ここでは、ヤコブの狡猾さや、慎重な性格から、学ぶべきこともあるのだと思います。
しかしまたヤコブはファラオの権力に守られたところへと行くのです。環境は整えられていました。ヤコブの時代はこれでよかったかもしれません。しかしこの立場はいずれ奴隷とされても行くのです。この世的に整えられた環境は、何かの出来事一つ、たとえば自然災害、人間関係の破たんによって、一瞬にして崩れ去るものであることも確認しておきたいと思います。どれほど慎重に判断しても、最後はそこに神様の御心があると信じて、歩き続けるしかないのです。何が起こっても、主が共におられるということから離れないでいたいと思います。
6 イスラエルの民としての移住
ヤコブはエジプトに向かいます。ここではエジプトに行ったイスラエルの人々の名前が示されます。ヤコブの息子たちは、息子としての個人の名前から、イスラエルの12部族の名前へと、性格を変化させていきます。ここで表したいのはイスラエルの民、すべての者が移動したということ。そのために表された70人という数です。総数70名という数は、33+16+14+7=70です。ただ26、27節にある数字は66とあり、それにヨセフとヨセフの子2名とヤコブを入れて70名としますので、ここには少しのずれがあります。ただ70という数字はイスラエルのすべての人間が移動したことを表します。ヤコブ一家がエジプトに移動した。それはイスラエルの民、一族がエジプトに移動したということを語っているのです。これからヤコブとヨセフとの再会へと向かいます。そして、いずれ、この地を「連れ出した」神様が、今度は「導き出す」ときとして、出エジプトの状況を整えていくのです。
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