1.人の決断よりも先に主の言葉がある
この箇所の新共同訳聖書の見出しは“アブラムの召命と移住”です。この“召命”という言葉(英語ではcalling:直接的には“呼ぶこと”と言う意味になります)はキリスト者には馴染みの言葉ですが、おそらく一般ではあまり使われない言葉だと思います。神様に召される、神様の命令を受けるということ、私たちを呼ぶ神がいる、そういう信仰を持っていることが前提となっている言葉です。
1~3節「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』」
主はアブラム(まだ“アブラハム”になる前です。ややこしいので、今日は“アブラハム”という呼び方で統一します)に、“私が示す地へ行きなさい”と命じます。この“行きなさい”という同じ言葉が創世記22章、アブラハムが息子イサクを捧げるようにと主が命令する場面で使われています。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい」(創世記22:2)。この「行きなさい」のヘブライ語は「レクレハー」と言います。これは、西南学院大学客員教授のユダヤ教ラビ、ジョナサン・マゴネット先生によれば、レク(行きなさい)という強い命令に、レハー(あなたのために)という言葉がついて、全体の意味としては“あなた自身に向かっていきなさい”、“あなたのためにいきなさい”という、強い命令が要求と招きの意味をもつように和らげられた表現です。
いずれにしましても12章と22章が、同じ表現(行きなさい)であることから、12章のアブラハムへの神からの呼びかけは、息子イサクを献げなさい、という後の命令と匹敵するぐらいの大きな試練、出来事であることを示唆しています。
この主の命令にアブラハムは何の疑問を発することもなく、何の躊躇もなく、ただ従っています。4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。これは22章でも同じです。「あなたの息子を連れて、モリヤの地に行きなさい。そこで彼を焼き尽くす生贄として捧げなさい」という恐ろしい命令に、アブラハムは何の躊躇もなく、ただ従って旅立ちます。
ここに私たちはアブラハムの強い決断力、主へのゆるぎない信仰を見るべきなのでしょうか。このように、私たちも主から命令を受けたのならば、何も言わずにすぐ従いなさい、そういう教えをここから読み取るべきなのでしょうか。
確かにアブラハムは、私たちの称賛に価する強い信仰と神への信仰を持っていたと思いますが、私たちはここで、この信仰の父と言われるアブラハム、イスラエル民族が彼の子孫であることを心の底から誇りに思っていた偉大なアブラハムのこの第一歩も、まずは1節「主はアブラムに言われた」、この主の呼びかけ、召命(calling)が先にあったからこそ可能であったという事実に思いを留めたいと思うのです。
主の御声を聴いて、それに応えたアブラハムの勇気、信仰は讃えられても良いのですが、まず先に主の言葉が在った、神の力強い御手がアブラハムを掴んで離さなかったということを最初の事として覚えたいのです。ただ従順さを持って応えるしかないほど、この主の招きとそして祝福の約束がこの時アブラハムにとって力強いものであったのです。
私は献身をさせて頂き、今神学部で学んでおりますが、もし私が心のどこかで、“これは私の決断だ”、“私が決心したんだ”、などと少しでも思おうものなら、今日の箇所から「いや違う。まず主があなたを呼んだのだ。主があなたを選んだのだ。あなたはそれに応えざるを得なくて応えただけだ。そして主はあなたの能力や経験や資質が優れているからではなく、ただ神の自由な選びと憐みの故に主はあなたを呼ばれたのだ」と、私はこの箇所から戒められ、教えられます。
そしてここには神の祝福も述べられます。“地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る”(3節)。“あなたを呪う者をわたしは呪う”という言葉もありますが、これは祝福を強調するための表現です。
イスラエル民族は、自分たちだけが神に選ばれた特別な存在だと思っていました。そのような特権意識は今の私たちにもあると思います。自分は人とは違う。または、私は救われている。自分たちキリスト者には神の約束がある。私は、世の中の人ほど悪く、世俗的ではない、等々。しかし、実はアブラハムが最初に召命を受けたこの時から、イスラエルの民だけでなく、地上の全ての氏族、すなわち全ての人々がアブラハムを通して神の祝福に入れられるという約束が与えられているのです。
この約束はイエス・キリストを通して今実現されています。イエス・キリストの十字架と復活の恵みを前にすれば、わたしたちは神の前に誰であってもただの罪人でしかないことを徹底的に知らされます。そしてそのような罪人の私たちもイエス様によって許されて、すべての人が祝福に入るというこの主の約束が成就したことを喜び、生きていくことができるのです。
2.旅立つということ
そして、主はアブラハムがどこから出発をすることになるのか、どこを離れることになるのかを念押しするかのように言います。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(1節)
これは少し不思議な言い方です。ただ“行きなさい”と言えばすむことではないでしょうか。なぜ念押しするかのように、“生まれ故郷”、“父の家”、などと神はわざわざ言われるのでしょうか。“イサクを献げなさい”と命じる22章でも、イサクのことを、“あなたの息子”、“あなたの愛する独り子”とイサクがアブラハムにとってどんな存在であるのかを強調して確認するような言い方を神はされます。
これは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家、そこにはあなたの家族親類がいる、アブラハムにとっては、出来ればどこにも行かずにそこに留まっていたほうが安心な場所、そのような場所を後にして彼が先に進んでいかねばならないのだ、ということを神がアブラハムにはっきりと思い起こさせているのです。
生まれ故郷、家族親類がいる場所、父の家とは、アブラハムにとって安心できる場所です。しかし、神の呼びかけ(召命)は時にそのような安住の地から離れて、神の示す地へ行く一歩を踏み出すことを要求するのです。
アブラハムの父テラ(創世記11章)は、息子アブラハム、孫のロト、アブラハムの妻サライ(サラ)を連れて、カルデアのウルを出発しハランまで行きました。直線距離では約800キロぐらいです。ユーフラテス川をずっと上流までさかのぼっていく道程です。大変な旅立ちをしました。
私たちは、ある人は死ぬまで生まれ育った地域で生活してそこで生涯を終える、またある人は生まれ育った場所を離れて生活し、そこで生涯を終えるという人もおります。私は愛知県の名古屋で生まれ育ちました。大学時代を東京で過ごして、8ヶ月ほど語学留学のためアメリカで生活したその何年か以外は、2年前に福岡へ来るまでずっと生まれ育った名古屋で生活をしていました。名古屋で約40年生活したので、名古屋は私にとってどこに何があるかもよく分かっている、安心、快適な場所だったと思います。そんな私にとって、名古屋を離れるということはちょっとした旅立ちであったのかな、と思います。
主の言葉に従うことは、私たちが今いるところを離れて、別のところへ行くという決断と行動を伴うのです。そしてこれは何も物理的に本当に遠いところへいかなくても、私たちが神の御声を聴くときに私たちが古い自分を捨て、新しい自分となって行動する時、それは私たちは今自分がいる場所から、日々主が示す道を進む、そのような“旅立ち”であるのです。私たちは聖書の御言葉に触れ、その御言葉に聴き従って生きるという決断を新たにするとき、いつでも文字通りの旅たちではなくても、霊的な旅立ちをその都度実行するように求められているのです。
ですから、特に牧師や伝道師のようにいわゆる直接的な献身ではなくても、イエス・キリストに従う信仰者は誰でも日々、新しいことに一歩を踏み出す勇気、旅立つ勇気を主から与えられている“献身者”であるのです。
そして私たちがそのように一歩を踏み出し旅立つその先には、主が用意してくださった祝福が私たちを待っている、そのような希望を私たちは持つことができるのです。
3.共に旅立つ人々
主が先に直接語り掛けてくださって、それに応えて旅立つという決心をしたのはアブラハムですが、アブラハムと共に旅立った人達がいました。アブラハムの妻サライ、甥のロト、また5節にある「ハランで加わった人々」です。
まずロトですが、12章の前で、アブラハムの父テラには3人の息子がいたことが記されています。11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラハム、ナホル、ハランが生まれた」。27節「。。。ハランにはロトが生まれた。ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。」27節で書かれた順番通りであったら、アブラハムが長男、ナホルが次男、ハランが三男であり、このハランの息子がロトですから、アブラハムにとっては末の弟の息子、甥であったのです。アブラハムにとっては、自分の息子同然の存在であって、長兄であるアブラハムにはロトを育てる義務が課せられたのでしょう。
アブラハムは甥のロト、妻サライ、ハランで加わった人々と共に旅立ちました。歴史的社会史的には一族の長であるアブラハムの決定に、周りの家族はただ従うほかなかったのかもしれません。しかし、神の呼びかけが最初にあって、そしてアブラハムが家族や一族と一緒に旅だったということは、その旅の中では、アブラハムには彼の家族や一族の支えと協力があったと考えてよいと思います。
アブラハム一族、この家族のグループは共に祈り合ってハランから出発をし、支え合って旅路を続けたのです。
私が献身したことについて時々周りから「ご家族がいてよく献身されましたね」と言ってくださる方もいらっしゃいます。しかし、私は家族がいたから出来た献身ではないか、と思っています。もちろん単身で献身される方もあり、召命の形は人によって様々なのですが、私の場合は妻とこども達、また実家の両親など、の決断を支持して支援してくれる家族は私にとって大きな力です。家族の力によって献身ができたし、今も支えられていると思っています。
そしてイエス・キリストを主と信じ、共に聖書の言葉に聴いてそれに従い、イエス様の教えを実現していこうとする私たち教会の歩みも、私たち一人一人がばらばらで歩むものではなく、私たちは“共に”信仰の旅路を歩むべく主に召された家族、“共に”召命を受けた家族なのです。誰か一人だけが飛びぬけて突き進むのではなく、私たちみんなで共に信仰生活を歩むのです。
アブラハムとこの家族がこの時踏み出したこの出来事は決してアブラハム一人、アブラハムの家族だけの出来事ではなく、後々の人類全体の出来事へと繋がっていきました。
私たち教会のすることも、今はたとえ小さなことのように見えても、神の大きなご計画の中で将来きっと大きく用いられると信じて、私たち共に信仰生活を送り、福音伝道の業に励みたいと思います。
4.私たちのいるところは仮の住まい
7節~8節をお読みします。「主がアブラムに現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」アブラムはそこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望むところに天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」
天幕とはテントです。テントは一時的な住まいであって長くいる場所ではないことを表します。私たちの信仰の歩み、私たちのこの世での歩みは、天の御国を思う時、一時の逗留生活のようなものです。しかし、神の祝福に入れられるという希望と約束を与えられた逗留生活であり、決して先の見えない行先不透明な放浪生活ではありません。
そして都度アブラハムが祭壇を築いたということ、これはアブラハムは主を礼拝したということです。アブラハムは旅の途中でその都度、主に礼拝を捧げた。そこで彼が主の名を呼んだように、私たちも共に歩む信仰の旅路の中で、日々、主を呼び、主を礼拝するのです。普段別々の場所で生活している私たちが毎週主の日に教会に集まって、共に礼拝を捧げること、私たちが共に神を礼拝することを決してやめたりしないので、主を讃美しつづけていきましょう。
最後の9節です。「アブラハムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」アブラハム達の旅は続きます。この先、神からの新たな試練も待ち受けていることをわたしたちは知っています。私たちの未来にもどのような主のご計画があるか、または困難や試練が待ち受けているのか、私たちにははっきりとは分かりません。しかし、主がまずアブラハムに語りかけてくださったという事実と主がアブラハムに与えて下さった希望の約束、そして一歩を踏み出す勇気を与えられたアブラハムを見ながら、私たちにも、必要なときに、神の言葉が与えられ、必要な新しい一歩を私たちが踏み出す力が、神から与えられるようにお祈りいたしましょう。
最後に、誰よりも最初に、まず大きな一歩を踏み出された方は誰でしょうか。それは御子イエス・キリストを世に贈ると決意されたお方、独り子の死という試練を御自身に与えて、イエス・キリストの十字架と復活を通して、この世界と御自分の和解のための最初の一歩をまず踏み出してくださったお方、私たち人間の住む世界に下ってくるという旅立ちを決意してくださった方、私たちの天の父なる神です。
この主イエス・キリストの大きな愛と力に信頼して今日も、今週も信仰の旅路を私たち共に歩んでまいりましょう。(酒井朋宏)
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