1: 礼拝に行くということ
今日は、7月の初めての日曜日となります。今月も共に、神様に祈り、礼拝していきたいと思います。また、今日は、月の初めということで、主の晩餐式を持ちます。キリストの十字架の恵みを共に受け取りましょう。
礼拝は、神様から与えられている命、一日一日の生活の営みの中で、神様に導かれ、神様と向かい合う時です。そして、私たちが自分自身の生活のうちに、神様との関係を確かめる時でしょう。神様に礼拝すること、そして主の晩餐を受け取ることは、何にも替えがたい恵みです。聖書ではこの礼拝の恵みをこのように歌っています。
詩編84:1-5
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。」詩人は、神様の家に住むことができるなら、そして讃美することができるなら、いかに幸いなことだろうと、歌います。神様を慕い求め、神様に礼拝を献げることの喜びを歌っているのです。
私たちは日曜日に教会に集まり、礼拝をいたします。私たちが礼拝に来て、得ようとしているものは何なのでしょうか。コンビニに行くときは、簡単に食べたいものや、手軽に飲みたいものを買いに行きます。またスーパーに行くときには、食べ物であればもう少し、考えて、料理をするための材料や、日常に必要なものを買いに行きます。レストランでは、食べものを食べます。また映画館には映画を見に、バスや電車は移動をするために、それぞれに目的があるでしょう。時々、気分転換のために、ウインドウショッピングや散策のために出かけるかもしれません。では教会に来て礼拝をするのは、何のためになのでしょうか。礼拝のどこに、「幸いなこと」「喜ぶべきこと」を見出すのでしょうか。私たちは心から礼拝することを求めているでしょうか。自分の生活の中で、礼拝に行くことの優先順位はどうなっているでしょうか。
わたしは高校を卒業してからすぐに献身者として、キリスト教の大学の神学部に進みました。それから7年間神学生として勉強させていただきました。7年間の学生生活の中では、いろいろなことがありました。その中で、「神様に対するつまずき」「人間に対するつまずき」「聖書に対するつまずき」がありました。今思えば、それらのつまずきを通してこそ、さまざまなことを学ぶことができたのだと思いますが・・・。礼拝に行くことに疑問を持った時がありました。
神学生ということで、実際に礼拝が単位ともなっていましたので、「礼拝は行かなくてはならない」「奉仕をする場所」。そして「学校の授業」という感覚がいつの間にか、重荷となっていた時のです。教会に行くことが義務的であり、疲れてしまう場所となっていたのです。本音は行きたくない。それでも神学生としての建前、行かなくてはならないという思いにつぶれてしまいそうになったこともありました。そのような中で、神学部の一人の先生に相談をしました。その時に、その先生はこのように言ってくださいました。「奉仕が一番ではなく、あなたの自分の信仰が守られることが一番大切なことだ。今、すこし立ち止まって、自分にとって教会に行くことは何なのかもう一度考えてみなさい。」そして「あなたの信仰のために、教会には出席しつづけるように」とアドバイスをいただきました。
「教会には出席し続ける」こと。このことが今では、何よりものアドバイスであったと思います。私は、教会の礼拝、そして祈祷会に通い続けることで・・・「神様は私を愛されている」ということ、そして教会で奉仕も何もしない、私のために、祈ってくださっている兄弟姉妹がいること、その恵みを実感したのです。これは教会に通い続けていなければ知ることのなかったことでしょう。礼拝の中での祈り、賛美し、献金をし、神様の御言葉を聞くことでこそ、神の「愛」に触れることになったのです。
私たちは、ときには立ち止まって、神様を礼拝するとは、どのようなことなのかを考えることも大切なのではないでしょうか。そして、自分が、神様のこと、教会のこと、兄弟姉妹のことを、どのように感じているかを振り返り、「信仰」・・・すなわち、神様が私たちを導かれている、愛されているという「信仰」を再確認することも大切だと思うのです。そしてまた、そのような時には「教会の礼拝に出席しつづける」ことをお勧めしたいと思います。
もちろん物理的に、また肉体的に、そして精神的に、それぞれに礼拝に来ることがどうしてもできないことはあるでしょう。実際に、礼拝を休むことが必要な時もあるかもしれません。そのことによって、神様は私たちを否定されることはありません。そのような時にも、もちろん神様は私たちを愛してくださっています。神様の愛は揺らぐことはありません。そして、礼拝は、神様の揺るがない愛を知るための場所です。神様の愛に触れる場所です。だからこそ、神様がわからなくなった時にこそ、礼拝に出席し続ける必要があるのではないでしょうか。神様を見失ったとき、神様の愛を思い出すためにも、礼拝を続けることをお勧めしたいと思うのです。
2: 愛されている者
神様に従い生きていること。礼拝することの恵みの一つは、新しい生き方「愛されている者として生きる」という生き方をいただく、そして再確認させていただくということではないでしょうか。別の言葉で言えば、「生きる」ための「新しいものさし」をいただくということです。礼拝に来ることによって、私たちは「愛されている」こと、そして「愛された者として生きる生き方」「生きるものさし」をいただくのです。
聖書は、今日の16節でこのように語ります。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」(16)
聖書は「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と教えます。「律法を実行」すること自体が間違っているのではないでしょう。しかし、私たちは律法の実行によって、義とされるのではないのです。
律法とは・・・聖書の時代でいえば、十戒を中心とする戒めです。律法は、神様の救いの上に成り立つ「生き方を示された恵み」です。律法は、神の救いの業に成り立つ、神様の示された道。それこそ「恵みのうえに成り立つ」「神様から示された、生きるものさし」でありました。しかし、イエス様の時代、それは「愛されている」「救い出された」という、神様の恵みを土台とするものではなく、むしろ「律法の実行」によってこそ、「救われ」「罪が赦される」、そして律法から外れた者を「裁いていく」、そのような人間的ものさしとなっていたのです。
そのような意味で、ここでいう「律法」とは、自分がすでに愛されている者として、生きるためのものさしではなくて、愛される者となるためのものさしです。「律法の実行」。それは、自分を否定せず、自分という存在を拒否しないために、愛されている者となることを目指したものとなっていたのです。自分という人間を受け入れられない者が、自分の存在を確認するための行為となってしまっていた。ここには「愛されたい」「愛したい」「安心したい」「生きていることを認めてほしい」という思いが詰まっているのです。
3: キリストを迎え入れる
聖書は「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言います。そしてイエス・キリストを信じるということを、19、20節で、このように教えます。
ガラテヤの信徒への手紙2:19-20「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」
「イエス・キリストを信じるということ」。それは「生きるものさし」が自分のうちにあるのではなく、イエス・キリスト、神様の愛によるもの、神様の愛を基とするものとなったということです。神様は、私たち人間を愛されました。愛して、愛し尽くして、イエス・キリストの十字架によって救い出されたのです。私たちは、すでに主イエスによって義とされている、生きる意味を与えられているのです。
私たちが生きているのは、愛されるために何かをするのではなく、すでにイエス・キリストによって愛されている者として生き始めるのです。それが、イエス・キリストを信じるということです。 キリストを信じるというのは、「イエス・キリストの十字架」を信じる。そして「愛されている」ということを信じる。そのなかで新しく「生きるものさし」をいただくことです。「愛されるため」の生き方から、「イエス・キリストの十字架」という「すでに愛されている者」としての生き方をいただくのです。聖書はこのことを具体的に、20節後半で、このように語ります。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
私たちが生きているのは、キリストを中心としたものです。キリストに人生を委ねるということ、その人生は、「愛されている者」としての歩みです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」による歩みなのです。そのために、私たちが救われるのは、私たちが、神様の御心に適う、良い行いをすることによってでは、決してないし、信仰者らしい、生活をすることでもない。それはもちろん、毎週礼拝に出席することによってでも、ないのです。そういうことが全くなくても。神様は私たちを愛しておられる。私たちのために、神様はイエス・キリストを通して、その十字架を通して、愛を表されたのです。私たちは、ただその恵み、その主イエス・キリストによる愛を信じることによって、新しい歩みを始めるのです。
4: 愛の実践
わたしたちは愛されている。だからこそ、私たちは、イエス・キリストによる、神様の恵みを無にすることではなく、主の恵みに素直に目を向け、ただ、神様の愛、イエス・キリストの十字架を信じていきたいと思うのです。そして、この神様の愛を基盤とする中で、もう一度、信仰者としての生活をどのようにするべきかを考えましょう。イエス・キリストの愛、その恵みは、わけ隔てなく、すべての人に与えられています。すべての人に愛は注がれ、向けられているのです。そしてその愛を素直に受け取ることが望まれています。すべての者のために神様は道を開かれました。神様は、私たちがこの開かれた道を歩き出すこと、神様の愛に応答する者となることを願い、望まれているのです。私たちは、神様の愛に応えて歩き出しましょう。心に「キリスト」を迎え入れていきたいと思うのです。そして神の愛に対する応答として、何ができるかということを考えましょう。神様は私たちを愛されました。私たちは「愛されている者」なのです。私たちは、愛されている者として、自分自身を見て、また隣の人を見てみたいと思います。
イエス・キリストは、私たちを愛し、私たちに寄り添ってくださいました。痛みを共に痛み、喜びを共に喜んでくださったのです。他者に寄り添って生きることは喜びであり、同時に痛みを伴う道でもあるでしょう。愛しあうとは、そこに正しい関係をつなぐことです。それは神様がイエス・キリストの十字架によって示された道です。そこには、耐え難い痛みがあり、苦しみがあったのです。イエス・キリストは、私たち人間の一人ひとりに寄り添うために、痛みを持って歩まれたのです。その最大の出来事として、主は十字架の上で死なれたのです。私たちを愛し、そして私たちと共に歩むために。主イエス・キリストは、死んでくださった。
私たちは「十字架のキリスト」に愛された者です。私たちは今、何をするべきなのでしょうか。私たちが望まれているのは、愛されている者として、自分を愛し、他者を愛する道です。その道は、時に、苦しい道を選ばなくてはならないかもしれません。時に、自分が傷つく時もあるでしょう。むしろ、自分が傷つくことなく、本当に、隣の人に寄り添うことができるのでしょうか。主は痛みをもって、私たちを愛し、共に歩まれる道を選ばれたのです。私たちは、この礼拝を通して、そして祈りを通して、もう一度、十字架のイエス・キリストという、愛の神様の前に立ち、歩くべき道を問い続けていきたいと思います。そして、それが時に痛みを伴う道でも、主に従い、歩んでいきたいと思います。
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