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2016.7.13 「創造を超えて働かれる方」  創世記46:28-34

1  人間の想像を超えた再会

 ヤコブは神様の言葉に従い、エジプトに向かいます。ヤコブはヨセフに言われたとおりゴシェンの地に到着し、そしてヨセフと再会します。ヨセフは父との再会に感激し、泣き続けました。またヤコブは「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」(30)と言います。45章において「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」(28)とも言っています。ヤコブにとって一番大切な息子ヨセフに再会することができたのです。

 ヨセフが生きていて、もう一度会うことができた。このこと自体がヤコブの予想を超えていたことでしょう。ヤコブは、ヨセフはすでに死んだものとして考えていました。そのヨセフと再会する時がくることは想像を超えた出来事だったでしょう。このヤコブとヨセフの出会いのうちに、直接はその姿を表していませんが、そこには確実に神様の働きを見ることができるのです。ヤコブは神様の御業の偉大さを再確認したのではないでしょうか。

 時に、神様のなされることは、私たちの思いを超えた出来事となるのです。それはこのヤコブとヨセフの再会のように、想像していた最高の喜びを超えた出来事であるときもあれば、自然災害や事故など、受け入れがたい出来事であるときも、そこに神様の御業が私たちの想像を超えたものであることを感じるのではないでしょうか。

 この中心にあるのは、人間の命が「誰に」支配されたものであるかを教えます。自然災害や事故など、受け入れがたい出来事。そこにあるのは「死」であり、同等に与えられた絶望です。このような時、私たちは「なぜですか」と叫びます。同時に、神様を知らない者でも、私たち人間の思いを超えた働きがあることを感じるのでもあります。

 またこのヤコブとヨセフの再会のように、命が守られ神様に生かされていることに気付かされるときに、そこには神様の存在と希望を感じるのではないでしょうか。

 

 ヨブ記にはヨブの言葉として「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)という言葉があります。財産も子どもも失った時のヨブの言葉です。

 

 ヨセフが生きていたことは、ヤコブにとっては信じがたいことであります。この出来事は、神様が人間の想像を超えたところで、命を守り、また命を支配されているということを教えられるのです。

 

2  ゴシェンの地

 このとき、ヨセフとの出会いの場、そしてこれから住む場所として、なぜゴシェンの地が選ばれたのかということに関しては明らかではありません。

 まず、ゴシェンの地というのは、エジプトの東北部にあり、現在の首都、カイロ、また大きな都市メンフィス、また、ヨセフはオンの祭司の娘と結婚しましたが、「オン」という、祭司の住む町からはだいぶ離れたところでした。

 それでもまた、ヨセフがエジプトにいた、当時の首都はアヴァリスというゴシェンの近くにあったとされます。ゴシェンはヨセフが住んでいたとされるアヴァリスというところからは、とても近かった。ヨセフの言葉にも「ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。」(45:10)という言葉があります。ヤコブはヨセフの近くに住むことになったのです。

 また、別の見方で見てみますと、このあと出エジプト記においてゴシェンの地は、イスラエルが奴隷として住む場所として記されています。

(出エジプト記8:18)「雹は、エジプト全土で野にいるすべてのもの、人も家畜も残らず打った。雹はまた、野のあらゆる草を打ち、野のすべての木を打ち砕いた。ただし、イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった。」(出エジプト記9:25-26)

 ヤコブはゴシェンに住むことになります。そしてイスラエルの民はこのゴシェンの地に住んだのでしょう。この出来事が、続く出エジプトという出来事へと目を向けさせる準備ともなっているのでしょう。

 ゴシェンの地。つまりエジプトの地、その中でも肥沃な地とされるところに住むことは、大きな危険をはらんでもいます。飢饉のうちにあって、安住の地を得たということと同様に、エジプトという帝国のもとにイスラエルが置かれたということも意味していくのです。主の民が、一つの権力のもとに置かれたということです。このときから、イスラエルはエジプトという権力のうちに入れられていくのです。このような危険性のある関係のうちに、ヤコブは47章ではこのようにヨセフに言いました。

 「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」(47:29-30)

 ヤコブの言葉は、ゴシェンの地、肥沃なエジプトの地は、自分たちが永遠に住み続けるべき場所ではないことを伝えます。つまりイスラエルは、エジプトという権力のもとに置かれるのではない、置かれてはいけないということを意味した言葉でしょう。イスラエルはエジプトではどこまでも寄留者であることを覚えていなくてはならないこと、あくまでも神様との関係、神様との約束のうちに生きることを忘れてはいけないことを覚えさせる言葉です。

 

3  忠告

 ヨセフは、感動の再会のあと、すぐに冷静な忠告をします。31-34節でこのように言います。

 「わたしはファラオのところへ報告のため参上し、『カナン地方にいたわたしの兄弟と父の家族の者たちがわたしのところに参りました。この人たちは羊飼いで、家畜の群れを飼っていたのですが、羊や牛をはじめ、すべての財産を携えてやって来ました』と申します。ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(31-34)

 

 「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(34)とあるように、羊飼いはエジプト人にとって受け入れられない職業の一つでした。当時、文明の先進国ともいえるエジプトにおいて、羊飼いは受け入れがたい職業だったのです。ヨセフは、「仕事は何か」と聞かれたときには「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます」(34)と答えるように教えます。

 

 この言葉には二つの理解があります。

 一つ目には、「羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」(34)とあるように、羊飼いはエジプト人にとって受け入れられない職業の一つであったのです。だから、「仕事は何か」と聞かれたときには「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます」(34)と答えるように教えた。つまり「羊飼い」であるとは言わないようにと教えたという理解です。「エジプト人のいとう羊飼いであるとは言わないように」と忠告したという理解です。

 

 もう一つの理解として、ヨセフは「羊飼い」であること、「家畜の群れを飼うもの」であると言う言葉によって、自分たちがエジプトに染まることがないということを示すための言葉であったという理解です。実際に、このあと兄弟たちは「あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます」(47:3)と「羊飼い」であると明らかにして伝えていくのです。

 エジプト人にとってどれほど受け入れがたい者であっても、「先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます」と言い、「私たちはただ、神様のみを主とする、神の民である」ということを表すように勧めているという理解です。ここではヨセフは「羊飼い」であること、「家畜の群れを飼うもの」であることを言いなさいと言っていると理解したいと思います。そして兄弟たちはヨセフの言葉に従ったという理解をしたいと思います。つまりそれは神様に従うものとしての告白の行為であったのです。

 アブラハムは一時的にエジプトに滞在はしました。しかし、イサクの時代には、「エジプトには行ってはならない」と言われてきました。今回は「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。」(46:4)と言われます。

 イスラエルとエジプトの関係からは、私たちキリスト者にとってみれば、生活の必要を満たす、富であり、力であり、権力と、キリストに仕える者であり続ける関係をみることができるのです。生活のために富を得ること、知恵をもって生きていくための力を得ることの大切さと、そのようなものにおぼれてはならない。富みや権力にあって、神様を見失ってはならないという忠告をしているのでもあるのでしょう。ヨセフは父との出会いの中にあって、泣き続けるなかでした。しかし、ヨセフはその感情と共に、冷静な知恵を持って、神様に仕える者として生きることを勧めるのです。生きるべき道としてエジプトに住むことと、エジプトのファラオに仕えることは同じではなく、エジプトという一つの権力のうちに生きて、そのうえで、主なる神様に仕えるということを教えているのでしょう。

 私たちは、神と富とに仕えることはできません。それでも実際に生きるのに、それなりの富が必要なのは確かなことです。私たちは知恵をもって富をえる中で、そのすべてを支配しておられる神様を見失うことなく歩んでいきたいと思います。