1: ローマ兵による侮辱
今日の箇所の前の箇所15節において、ピラトはイエスを鞭打ち、そして十字架につけるために、引き渡していきます。事実、イエス様は十字架につけるための道を歩き始めているのです。
ピラトは、自分の部下にイエス様を引き渡します。このピラトの部下は、もともとは過ぎ越し祭の警備にあたるためにいたローマの兵で、600人程度いたと考えられる兵士たちでした。ローマの総督ピラトは、いつもはカイサリアにいたようですので、この時エルサレムにいたのは、過ぎ越し祭の警備に来ていたのです。このような兵士たちによって、イエス様は侮辱を受けていくのです。兵士たちは過ぎ越し祭の警備といっても、時間を持て余していたのでしょう。兵士たちはイエス様を侮辱し、暴力を加えていきます。 ここでなされたイエス様への行為、王様のように仕立て、侮辱して、痛めつけてから殺していく。囚人を馬鹿にしながら祭りごとのように大騒ぎをすることは、当時の世界では珍しいことではなかったと考えられています。ローマの兵士たちは、イエス様に紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼をします。紫の服を着せ、茨の冠をかぶせることによって、王様として現し、侮辱をする。このように人を痛めつけ、ふざけて、喜んだ。そしてそのあとには、葦の棒で頭を叩き、つばを吐きかけたのです。
このローマの兵による、人権を無視した行為は、マルコによる福音書では特に、細かく描写されています。その理由の一つには、これまでのイエス様の預言と、旧約聖書の言葉が実現していくことを表しているというところにあります。
イエス様はマルコの10章ではこのように言われました。
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33-34)
また旧約聖書ではこのようにも言われています。
イザヤ書50:6-7「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。」
ここに、神様の御言葉の実現がなされていきます。イエス・キリストは、このように人間の身勝手な行為によって十字架へと向かうのです。人間の勝手な行為、他者のことを考えずに、人間としての大切な存在を無視した行為。このような行為によってイエス・キリストは十字架へと向かいます。主なる方は、私たちの自分勝手な心、自己中心的思いによって十字架につけられていくのです。 しかしまた、このことを神様の御言葉はすでに預言され、神様の計画として実現されていくのです。神様は私たち人間の弱さ、間違い、道を踏み外す心をも受け止めてくださっているのです。そして、どれほど人間の勝手な行為であっても、そのような行為さえも、神様が自らのご計画のうちにある出来事とされるのです。
このことはとても私たちを勇気づけるのではないでしょうか。自分の自分勝手な思い、自己中心的な失敗をも、神様は用いてくださるのです。もちろん、だから何をしてもいい、人を傷つけてもよいということではないでしょう。確かに、私たちはその間違いや失敗によって、他者を傷つけ、キリストを十字架へと向かわせたのです。しかしまた、だからこそ、イエス・キリストはそれら私たちの失敗や傲慢さ、そのすべてを受け止められ十字架に向かわれたのです。私たちにはこの十字架による、救いの道が開かれているのです。
2: 上から押し付ける権威
確かにイエス様は侮辱を受けました。それは単なる侮辱ではなく、イエス様が一人の人間としての人格を否定され、暴力を加えられたということ。そしてそれはこの世の社会的権威によって押し付けられたのです。イエス様は、最高法院で裁判を受け、ピラトに十字架刑による死刑判決を受け、そして今、ローマ兵から侮辱され、暴力を加えられるのです。これらはすべて、この世的権威、この社会における権威によって押し付けられたものです。
ローマ兵はイエス様を傷つけ侮辱を加えました。この時、ローマ兵はとても大きな誘惑を受けていたのでしょう。自分たちがだれかの上に立ち、他者の尊厳を無視し、なんでも好き放題できるという誘惑。自分たちがどこか権威をもったと感じるという誘惑です。人間にとって、権威を持つことは大きな誘惑となるでしょう。自分の言葉に従う人がいる。それはまるで神様にでもなったようです。そして自分はどこか、社会で認められた気分になる。認められ、愛されているという気分になる。
ここにある大きな誘惑の根本は、「愛すること」を忘れてしまうこと、「他者の気持ちを考えなくなる」こと。そのようなことは自分がされるべきで、自分はしなくて良いと考えるようになることです。自分は愛されるべき存在であると考えながらも、自分が誰かを愛することを忘れていくことへと誘うものです。イエス様が教える、神様の求める「お互いに愛し合いなさい」ということから離れていってしまうという誘惑なのです。
この時のローマ兵は、まさにそのような誘惑に陥った人間の弱さを表します。ローマ兵は皇帝から始まる上下関係のうちにいました。その中で自分のことを考えてくれる人などいないと感じていたのかもしれません。そしてそこに、自分が上に立つことができるユダヤ人、しかもユダヤ人の王として侮辱し、嘲笑することができる人物が現れたのです。
このような誘惑のうちに、イエス様を傷つけ、暴力を加えたローマ兵に対して、イエス様は、何も語りませんでした。イエス様はローマの兵に侮辱され、暴行を加えられた後、十字架につけられていきます。どこまでも辱められ、それでも何の抵抗もなく、死に向かうのです。聖書はそのようなイエスを、キリスト、救い主として示したのです。ただただ人間の弱さによって痛めつけられ、死に、どこまでも弱いもとのなられた方を主なる方、本当の権威ある方としたのです。
そのことを聖書はこのように教えます。
フィリピ2:6-11
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
イエス・キリストはどこまでもへりくだり、死に至るまで従順になられた。ここに真の権威、神様の愛による権威が表されたのです。真の権威とは、人を力で上から押さえつけるものではありません。上から押さえつけて、真実を捻じ曲げることさえもある。そのような権威は本当の権威ではないのです。イエス・キリストによって表された真の権威は、どこまでも神様の御言葉に従順であり続けることによって表されたのです。
3: 当時のキリスト者へのメッセージ
この福音書が記された時代の、マルコの教会は、実際にローマの権力によって迫害のうちにあったのです。だからこそ、このイエス様の神様に従い続ける記事は、人々を力づけたのです。迫害され、笑いものとされ、生きる希望を失いそうになるなかにあって、このキリストの姿は、人々を力づけたのです。苦難の中で生きる人々に勇気を与えたのでした。
聖書にはこのような言葉もあります。
Ⅰペトロ2:21-25
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」
聖書は「あなたがたが召されたのはこのためです」と教えます。それはイエス・キリストが十字架にかかって死に、そしてその傷によって、私たちの罪を担い、義とされた。羊のようにさまよっていた私たちに、生きる道を示された。私たちはこのキリストの十字架によって、招かれ、召されているのです。だから、なにがあっても、どれほど現実が困難のうちにあっても、私たちは、キリストに招かれた道、へりくだり、神様に従い続ける道を歩いていく。その勇気をイエス様ご自身が、この世に来られ与え続けてくださっていると教えているのです。
4: 私たちの歩く道
最後に、イエス・キリストの十字架によって招かれた私たちが歩くべき道について共に考えたいと思います。イエス・キリストは十字架にかかり、死ぬまで神様に従い続けました。どのような迫害も、どれほどの暴力も、辱めをも受け入れて行かれたのです。私たちはこのキリストに従うものとして、どのように歩き出すのでしょうか。イエス様が受けられた辱めや、マルコがこの記事を記した時のような迫害は、今を生きる私たちにとっては、それがなかなか自分のものと感じられない、そのようなものかもしれません。 しかし、よくよく考えてみますと、キリスト者だからといっての暴力はなくても、上から押し付けるような権力に、私たちもいつも向かい合わされているのではないでしょうか。
学校でも、会社でも、もちろん教会や幼稚園、そして、家庭でも、どこでも人間が集まるところには、その中のどこかに上から押さえつける権威、圧力が生まれていくものなのです。それが時にはいじめという形、暴力や、仲間外れにすることによって、またそれが正しいかどうかわからなくても、大きな声で語る者の言葉にみんなが従うようなことによって、もっと言えば、国家の力によって。そして各国が、それぞれの権威を、武力や経済力によって主張することによって。私たちの生きるこの現代の社会、それは人間が集まるところは、いつでも、どこにでも、上から押さえつける権力が生まれていくのです。
私たちは今、どのように生きていくのでしょうか。私たちには、イエス様がなされたように、どこまでも無抵抗であることが求められているのでしょうか。沈黙であり続けなさいと言われているのでしょうか。そうではないでしょう。イエス様が示されたのは、上から押さえつける権威に従うことではなく、神様の御心に従いなさいということです。無抵抗になりなさいということではありません。時には、神様の御心を表すために、声を挙げる必要もあるのだと思います。
このような言葉があります「キリストは人間の死すべき、弱い命の苦さや苦悩をご自分で受け入れられた。・・・緋の衣をもってご自身の王権を象徴されたのである。葦をもって、悪魔の力の弱さともろさを暗示されたのである。平手うちで、私たちが受けるはずの虐待や叱責、打ち傷を忍ばれて、私たちの自由を宣言されたのである。」
私たちは確かにイエス・キリストの十字架によって、上から押さえつける権力に対して自由なものとされたのです。そしてそれは、私たち自身が、押さえつける権力となることもある、そのような自覚を持つことも必要だということです。私たちも時に、神様ではない権威、この世的権威に加担してしまう。そのような弱さを持つのです。そしてその弱さが、イエス様を傷つけ、十字架につけていった。イエス様を十字架につけたのは、私たちの罪であり、それは神様に従わないという罪であります。わたしたち自身が、これら間違った権威、人を暴力や経済力によって押さえつけることから、解放されるため、キリストは十字架にかかってくださったのです。
キリストの十字架は、神様にどこまでも従順であられた姿です。そしてそれは、私たちが解放され、自由を受け取るためでした。わたしたちはもはやどのような権力にも捕えられることはない。それは自分自身の弱さに対してもです。私たちはイエス・キリストというくびきを負ったのです。そしてキリストのもとにおいて生きる、本当の自由を与えられているのです。私たちが歩き出す道。それは、神様に愛されている者として生きる道です。私たちが歩き出す道は、ただ、この世に神様の愛の深さを伝えていくということです。キリストの十字架に従うことは解放であり、自由を得ることです。私たちは、この神様の愛を伝えるために歩き出したいと思います。
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