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2016.7.24 「心を打ち砕く叫び」 (全文) マルコによる福音書15:33-41

1:  十字架上での言葉

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(34)今日の箇所において、イエス様は十字架上でこのように叫ばれました。イエス様は十字架上で死ぬ前に、いくつかの言葉を発しています。ルカによる福音書では、イエス様は、自分を十字架につけ、あざ笑う人々の中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。そして、共に十字架につけられた犯罪人の一人が、イエス様に対して「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:39)と言い、もう一人の犯罪人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)と言う中で、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と、語られるのです。

 そして最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と叫ばれました。また、ヨハネによる福音書では、イエス・キリストは、自らの母親と弟子を見て「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。(ヨハネ19:26)と語られ、弟子たちには「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:27)と語られます。続けてイエス様は、聖書の言葉が実現されるために、「渇く」(ヨハネ19:28)と語られます。そして「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と語られて息を引き取るのです。

 イエス様が息を引き取る場面は、それぞれの福音書によって、それぞれの言葉によって表現されているのです。先ほど言いましたように、ヨハネによる福音書では、「成し遂げられた」と、神様の主権によって十字架の出来事、神様の救いの出来事が成し遂げられたことを、イエス・キリスト自らが語っているのです。また、ルカによる福音書での十字架の上のイエス・キリストは、執り成しの祈りと、主により頼む、その姿を示されているのです。

 

 マルコによる福音書、マタイによる福音書。この二つの福音書においてイエス様が語られる言葉は同じ言葉でありました。イエス様は、息を引き取られる時、つまり、死に行かれる、その寸前に、このように叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。という意味であります。マタイでは、少し形が変わっていますが、基本的な同じ意味の言葉が記されています。この言葉は、救い主らしいともいえる他の福音書に記される言葉、「成し遂げられた」や、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」とは、だいぶ離れた言葉に聞こえるのではないでしょうか。救い主らしくない言葉。イエス様は人々を癒し、人々を力づけてきた人です。それでも最後には本当の救い主とは見ることができない、そのような弱さのうちに死んでいかれた。そのような言葉なのです。

 

2:  神様への叫び

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、イエス様が、死ぬ前に、本気で、神様に叫ばれた、苦しみと痛みの、叫びでありました。マルコはイエス様の十字架上の言葉を、キリストの叫びとして、この言葉だけを残したのです。しかも、ここでは、わざわざ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と記してある。これは、当時、イエス様が口にされていた、アラム語でした。それは、日常使われていた、言葉で記されているということです。つまり、イエス様の「日常の」、「生の」、「生きた叫び」として、この言葉が記されているのです。この言葉が残された。それは、この言葉が、まさに人々の耳から、離れないでいつまでも、響いていたということではないでしょうか。

 イエス様が十字架上で死に、そして三日後に復活し、聖霊がくだった。その後、弟子たちによる伝道が始まり、教会が作られていく。その中で、イエス様の福音をきちんとまとめていくために、記されていった新約聖書です。その中にあります、マルコによる福音書では、この言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。という言葉が響いていたのです。イエス・キリストの絶望的痛み、孤独の中にあった苦しみ、その中で、叫ばれたこの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉が、いつまでも耳から離れない。その生の叫びの言葉であったのです。イエス・キリストの十字架上での言葉が、その叫びが、どうしても、耳から離れなかったのではないでしょうか。

 このイエス様の最後の叫びの言葉は、実は、詩編の言葉と重なるのであります。

 詩編22:2-3

 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」

 この詩編22編は、イザヤ53章と同様に、イエス様の十字架を預言したものとして考えられています。詩編22編は、やがて、神様を褒め称え、勝利の歌へと変わっていくのです。一部ですが、少し読みますと・・・「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。」(詩編22:24-26)

 この詩編の歌から、イエス様は、まさに、十字架で勝利され、神様の栄光の褒め称えておられるのだという、そのような考え方もあります。この考え方も、十字架の一つの理解だと思います。しかし、イエス様は一人の人間として、この世に生まれ、そして、この時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのでした。このイエス・キリストが叫ばれた、この言葉に目を向けるとき、それは栄光や勝利という言葉では片付けられない、痛みが、そこにあったと感じるのではないでしょうか。私たちは、この言葉から、イエス・キリストの勝利を感じるでしょうか。

 むしろ心の苦しみを、その叫びを感じ取るのではないでしょうか。イエス・キリストは、心の底から、この言葉を叫ばれている。神様に向かって、「なぜですか。どうしてですか。」と叫ばれているのです。十字架上にあって、イエス・キリストは、死の恐ろしさ、本当の痛みと苦しみを体験させられているのです。

 

 現在、私たちが死に向かう時に、「なぜですか」という叫びの言葉と、「主よ、あなたにすべてを委ねます」と信じて委ねることが許されています。それはこのイエス・キリストの十字架の叫びによるのです。イエス・キリストは人間の代表者として、神様に捨てられていったのです。このキリストの十字架という出来事によって、私たちが神様の御許へと行く道が開かれました。 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエス・キリストは、死を直前にして、このように叫ばれたのです。本当の死とは、ただこの世を去ることではないのです。本当の死とは、このイエス・キリストの言葉にありますように、まさに、神様に見捨てられた時であります。そして、その死を、神様に見捨てられるという、その恐ろしさを、イエス・キリストは、ただ一人で受け止められたのであります。

 だからこそ、この叫びを耳にした人々は、この言葉を忘れることができなかった。特に一番最初に福音書を記していったマルコは、この言葉を、イエス・キリストの唯一の言葉として、記したのであります。

 

3:  神の子と告白する

 イエス・キリストの言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びを聞くなかで、イエス・キリストのことを「本当に神の子だった」と告白する人が現れます。それは、イエス様の弟子や、イエス様にいつも従っていた人ではありません。イエス様のお話を聞こうと、いつも後をついていった人々でもありませんでした。それは、異邦人であるローマの百人隊長が、イエス様を「神の子と」告白するのです。イエス様の弟子たちは逃げ出し、隠れてしまっている中、ローマの百人隊長が、イエス様を神の子と、主と告白していくのです。このイエス・キリストの叫びは、本来、敗北であり、弱さであり、「神の子」と告白する部分など、見当たらないはずです。しかし、このイエス・キリストの叫びが、ローマの百人隊長の心を動かした、心を打ち砕いたのです。イエス・キリストの敗北とも見える姿、弱さに徹底して、従い、その中で、「わが神、わが神、」と祈る、その姿によって、百人隊長は変えられていくのです。

 イエス・キリストの叫びは、まさに父である、神様に向かって、「わが神、わが神、」と叫び、祈る、姿でありました。イエス・キリストは、苦しみ、痛み、死を目の前にして、神様から捨てられた者とされても、それでも、なお、祈ったのです。イエス・キリストはこの十字架の上で、暗く、神様が独り子を見殺しにする、その場所において、イエス・キリストは祈られたのです。そして、そこにはその祈りを聞き、受け止められる、神様の姿、その祈りを聞き、苦しみ、痛み、受け止めた神様の姿があるのであります。この姿が、異邦人とされるローマの百人隊長の心を打ち砕いたのです。そしてこのキリストの姿、その言葉こそが、私たち人間の心、かたくなな心を打ち砕き、神の前に立つ者と変えていく力をもつ、キリストの言葉であり、姿なのではないでしょうか。

 

 私たちもまた、神様に見捨てられている、見放されてしまっていると感じることがあるのではないでしょうか。「このような苦しみの中、どのようにしたら、神様を見出すことができるのか。」「もう神様なんか信じることができない。」私たちは、そのような思いに陥るのです。しかし、だからこそ、私たちがそのように、弱く、神様を見出すことができない時、私たちの絶望を、私たちの苦しみを、イエス・キリストは十字架の上で、背負われたのであります。

 そして、私たちが、神様から離れ、どこかへ逃げ出そうとしても、イエス・キリストは、その中にあって、「わが神、わが神」と叫び祈ってくださっている。私たちの痛みや苦しみを、背負って、祈ってくださっているのです。そして、私たちの祈りを神様へと、つないでくださっているのであります。

 イエス・キリストは叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」このイエス・キリストの叫びが、希望を失い、立ち上がることもできないと思ってしまっている、私たちを、そのもっと深いところから、支えて、下さっているのです。

 

4:  神の子と告白する

 この叫びは、私たちのかたくなな心を打ち砕くための言葉でもありました。今日の箇所の37-38節において、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されていますが、この箇所は、イエス・キリストの十字架が私たちのかたくなな心を打ち砕いていくことを象徴的に表しているのです。ここで記されている、神殿の垂れ幕というもの、それは、神殿の一番奥にあります、「至聖所」という場所の前に、掛かっていたものでありました。この「至聖所」に入れるのは祭司のみであり、ここで、祭司が、神様に執り成しをしていく場所です。

 つまり、普通の人々は、この「至聖所」に入ることもできなければ、神様に直接、祈ることも、讃美することもできなかったのです。しかも、これがユダヤ人ではない、異邦人、つまり、百人隊長のような人々にしてみれば、神様を直接、礼拝すること、讃美すること自体が、赦されていない、神殿の垂れ幕というものは、それを象徴的に表しているのでもあったのでありました。イエス・キリストの十字架は、苦しみ、痛みの中で、この壁を取り払う、神様と人間との隔たりを取り払ってくださるものでありました。この神様と人間との隔たりというものは、ここでは、象徴的に、神殿の垂れ幕と記されています。

 

 この神様と人間との隔たり。私たちにとってみれば、それは、私たちの心の中にある、神様を神様として認めない心、むしろ、自分を中心として、自分を心の真ん中に置いてしまう、そのような心こそ、私たちと神様との隔たりとなっているのです。イエス・キリストは、そのような私たちの心、かたくなな心を知り、そして、その心の中に入ってきてくださるためにこそ、十字架で苦しまれ、死なれていったのであります。

 イエス・キリストは、まさに、私たちの神様を認めることができない心を打ち砕き、そして、そこに十字架を立てられたのであります。イエス・キリストは、十字架によって、私たちの、神様を認めない心、自分を中心としてしまう心を、受け止めてくださった。そして、イエス・キリストは、私たちが、神様の前に立つことができるように、私たちの心を、共に担ってくださっているのであります。私たちは、このイエス・キリストの支えによって、どのような時も、祈ることが赦される者とされたのです。

 

 死は敗北ではなくなりました。死は命へと変えられ、私たちの苦しみは、喜びとされるのです。神様は私たちの祈りをいつも聞いてくださっています。私たちと同様の痛み、同様の苦しみを受け止められながら、神様は、祈りを聞いてくださっているのです。私たちは、最初の信仰告白者であるローマの百人隊長に倣い、「イエス・キリストこそが、神様の子である」と告白していきたいと思います。すでに、私たちの心は打ち砕かれました。そしてキリストはその叫びと痛みをもって、私たちがその恵みを受け入れる時を待っておられるのです。私たちは、苦しみのイエス・キリストを、痛み、叫ばれた、イエス・キリストを、神様の子として、そして自らの主、救い主と告白していきたいと思います。