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2016.7.27 「ファラオとの会見」 創世記47:1-12

1 5人の兄弟の会見

 この箇所は、ヨセフの兄弟、そして父ヤコブとエジプトの王ファラオとの会見の場面です。まず兄弟がファラオに会います。ヨセフは、兄弟の中から5人を選びます。この5名という数字がなぜなのかはなかなかわかりません。レアの子はルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンと6名であり、ラケルの子はヨセフとベニヤミンの2名です。ビルハの子はダンとナフタリと2名、ジルパの息子がガドとアシェルの2名です。

 実際にこの創世記が記された時に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれていたことからでは10と2に分けられることはあっても5名という数字はなかなか出すことはできません。またちょっと強引に一つの考え方とするなら、ヨセフを抜いた兄弟で、レアの子ども6名ではない者たちが選ばれたと考えることもできます。ただこの5という数字がヨセフ物語で、数多く記されていることは確かです。

 「また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。」(41:34)

 「そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ。」(43:34)

 「ヨセフは更に、全員にそれぞれ晴れ着を与えたが、特にベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えた。(45:22)

 「収穫の時には、五分の一をファラオに納め、五分の四はお前たちのものとするがよい。それを畑に蒔く種にしたり、お前たちや家族の者の食糧とし、子供たちの食糧としなさい。」(47:24)

 これらは推測にすぎないため結局なぜ5名だったのかということにきちんとした答えはありませんが、エジプトの何らかの宗教行為のための数字と関わっていたとも考えられます。

 

 ファラオとの会見において、兄弟たちは46:33-34においてヨセフに忠告されます。「ですから、ファラオがあなたたちをお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えてください。そうすれば、あなたたちはゴシェンの地域に住むことができるでしょう。」羊飼いはすべて、エジプト人のいとうものであったのである。」

 ヨセフのこの言葉は「エジプト人のいとう羊飼いであることを明かさないように」という忠告であったとされ、ここではヨセフの忠告通りには答えなかった兄弟たちがいたという考えがあります。また逆にヨセフが「羊飼い」「家畜の群れを飼うものである」と答えなさいと指示したとも考えられています。今回は、前回の理解通り、ヨセフの指示があり、その指示に従った兄弟たちの姿であるとみていきたいと思います。

 兄弟たちはヨセフの言葉に従ったのです。ここにはヨセフが権力者と知恵者であることを兄弟たちが認めて従ったという姿があるのです。そしてこのヨセフの言葉に従うことによって、結果、最良の地を与えられ、また監督官としての地位までも与えると言われるのです。

 

2 ファラオの言葉のもとにあるもの

 ファラオはヨセフに言いました。「父上と兄弟たちが、お前のところにやって来たのだ。エジプトの国のことはお前に任せてあるのだから、最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう。もし、一族の中に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」(5-6)

 

 兄弟たちは「わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナン地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。」(4)と言います。兄弟たちが「寄留させていただきたい」という言葉に対して、ファラオは「最も良い土地に父上と兄弟たちを住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう。もし、一族の中に有能な者がいるなら、わたしの家畜の監督をさせるがよい。」(6)と、エジプトに住み、よければエジプトの地位も与えると言うのです。

 ゴシェンの地に住むことができるようになるのはヨセフの考え通りであったでしょう。しかし、エジプトの地位までも与えるということは、ヨセフの思いを超えていたのかもしれません。そしてそれは、エジプトという政治、経済の力のもとに従う者とされていく、そのような危機のうちに立たされていく言葉として聞くことができるのです。つまり「寄留者」ではなく、「エジプトに住む者、しかしエジプト人が忌み嫌う羊飼い、まったく地位のない低き者としての家畜の世話をする者、それでもエジプトの地位のもとに従うものである、そしていずれ奴隷になっていく。」ということです。

 特に、この話を聞いているすでに出エジプトの出来事を知っているイスラエルの民にとっては、このときの出来事、ファラオの言葉に緊張感を感じて聞いていたのではないでしょうか。

 

3 ヤコブとファラオ

 続けて、ヤコブがファラオに会います。ここでの会話は、ファラオにとってはただの雑談ではなかったのかとも言われますが、そこにヤコブは、自分の生涯がどのようなものであったかを語ります。

 「ファラオが、「あなたは何歳におなりですか」とヤコブに語りかけると、ヤコブはファラオに答えた。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(47:8-9)アブラハムは175年、イサクは180年生きたことから考えれば、確かにヤコブの人生は130年、このあとの17年を加えて147年というもので短いとも言えるかもしれません。そしてヤコブの人生は、厳しく苦しみの人生であったことは確かなことでしょう。

 

 この雑談の中で、ヤコブはファラオとの会見を、自分のほうからの祝福の言葉で始めて、挨拶で終わらせました。この挨拶は、基本的には、単に形式上の挨拶であると考えられますが、それでもヤコブの祝福、つまり神様が与えたヤコブへの祝福がエジプトという権力を越えたものであるとみることができるのです。

 エジプトの王ファラオはここではすべてを支配する権力者であり、ファラオが「ある」といえば、それは「ある」ものとなり、「ない」と言えば、それは「なかった」ものとなる、そのような絶対的権力者の象徴的姿です。定住した土地、財産、権威、すべてを持つものです。それに対して、ヤコブは食べる者を失い、住むところもなく、権威などはまったくないものです。しかしそれでもヤコブはファラオが唯一持たないもの、神様からの祝福、約束を持つ者であったのです。

 ここでのヤコブのファラオとの会見が、この祝福で始まり、終わったことから、神様の祝福の偉大さ、そしてイスラエルの民にとっての、神様への思いを教えられます。エジプトの背後にあるこの世的権力とその権力を超えた神様の祝福があるのです。

 

4 すべての者

 「ヨセフはファラオが命じたように、父と兄弟たちの住まいを定め、エジプトの国に所有地を与えた。そこは、ラメセス地方の最も良い土地であった。ヨセフはまた、父と兄弟たちと父の家族の者すべてを養い、扶養すべき者の数に従って食糧を与えた。」(11-12)

 

 父ヤコブとその一家はラメセス地方に住む者とされていきます。ラメセスとはファラオの名前から由来するもので、ここで「ゴシェン地方」ではなく「ラメセス地方に住む」と語ることは、イスラエルがファラオの奴隷となっていくことを表しているのでもあるでしょう。ここで「ヨセフはまた、父と兄弟たちと父の家族の者すべてを養い、扶養すべき者の数に従って食糧を与えた。」とありますが、「家族の者すべて、扶養すべき者」を岩波訳では、「家族のすべて、弱小の者」と訳します。それは「幼児、女性、老人」を指すものであり、それほどまでに手厚く歓迎されたということが記されています。ただ、ここでも、すべての者が養われるほどにエジプトの権力に頼ることの危険性があったことは確かです。このあとヤコブの遺言に向かいますが、ヤコブの言葉は、エジプトという誘惑に陥らないように教えています。

 実際にエジプトに来て、そこに住むことから、イスラエルの民が奴隷とされていく。そしてそこに神様の御手が差し伸べられ、解放に向かうわけです。今日の箇所では、このようなこの世的権力の誘惑を表します。私たちが神様を求め、生きるなかで、それでも私たちはこの世で生きるのです。そのような者がただ神様により頼み生きていく「神様の民」であり、この世の権力に対しての「寄留者」であることの難しさです。そのような意味で、ここではその誘惑に対する緊張感が語られています。