「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう!」。この預言者の言葉は、私たちが平和を考える8月に耳を傾けるべき言葉です。先週の笠井牧師の説教にあったように、8月6日は広島、9日は長崎の原爆被災から71年目を迎え、明日は戦後71周年を迎えます。そして、世界は、貧富の差の拡大、テロの多発、差別、殺戮で満ちています。ネットで繋がった世界は、ポケモンゴーのゲームでも繋がっていますが、不安と恐怖に根指した流言蜚語で簡単に影響される闇の連鎖の危険に満ちています。暴力と絶望の刹那主義が伝染病のように広がっています。
1.預言者が直面した現実
イスラエルよ、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。この勧めは決して、何か楽観的な状況の中で、あるいは、抽象的な「真空」の中で語られたのではありません。この勧めのすぐ後の6節に、「あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた」と語られているからです。「主なる神は御自分の民、ヤコブの家を捨てられた」。これが、預言者イザヤが直面していた悲劇であり、現実でした。北イスラエル王国と南ユダ王国は2つの大国に挟まれていました。私たちが世界史で習う、メソポタミヤ文明とエジプト文明です。そこに興る帝国に翻弄されたのです。預言者イザヤの時代はメソポタミヤの方が力を持ち、現在で言えばシリヤとイラクに当たるアッシリヤに、ティグラト・ピレセル3世が立つと、イスラエルへの政治的・軍事的圧力が強まってきました。「力には力で、剣には剣で」ということで、北イスラエルの王ぺカとその北に位置するシリヤのダマスコの王レジンは同盟を結ぶことでアッシリヤ帝国に備えたのです。まさに、「同盟強化」と「軍備増強」こそ、「積極的平和の実現の道」であると考えたのでしょう。そして、イザヤが当時生きていた南ユダもこの軍事同盟に参加するようにと圧力をかけられたのでした。紀元前733年のことです。王位についたばかりの南ユダのアハズは、「主なる神に信頼し、中立でいなさい」と勧める預言者イザヤの声に耳を傾けずに、何とアッシリヤのティグラト・ピレセルに支援を求めたのです。アハズにとっても、「力には力を、軍事力には軍事力を」が行動原理でした。真実を追究し、義に生きるというよりも、誰を味方に引き込むのが得策かと考えたのでしょう。その後のイスラエルの歴史は、まさに預言者の言葉の通りでした。12年後の紀元前721年、北イスラエルはアッシリヤによって打ち滅ぼされます。「剣は解決にはなりません」。南ユダ王国は辛うじて残りますが、後にヒゼキヤ王の時代に、南ユダもアッシリヤに敵対して、701年、エルサレムは完全に包囲されてしまいます。「剣は解決にはなりません」。その時のことがイザヤ書の1章に描かれていると言われています。やがて、そのアッシリヤも東の隣国バビロニヤに滅ぼされ、次に、バビロニヤはペルシャに滅ぼされ、更に、マケドニアのアレクサンダー大王がペルシャを支配していくわけです。こうして軍事力による支配は長い目で見ると、決して続かないのです。
このような現実の中で、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」という勧めは、決して、何か楽観的な状況の中で、あるいは抽象的な「真空」の中で語られたのではありません。
2.「幻」に見たこと
1節には、預言者イザヤが「幻」に見たこと、と言われています。口語訳聖書では単に「イザヤが示された言葉」となっていましたので、「幻に見たこと」という翻訳が私には新鮮でした。ヘブライ語の「ハーザー」という用語は「見る」という意味ですが、1:1では名詞形(ハゾン)で登場し、「幻」と翻訳されています。「幻」は、預言とか夢、神の啓示に繋がる言葉です。預言者イザヤは剣や槍を、豊かな実りを期待して、鍬や鎌に打ち直す鍛冶屋さんと農民の喜びに溢れた姿をありありと見たのでしょう。これが将来のヴィジョンです。
今日、私たちは、どのような幻、どのような将来像を描いているのでしょうか。アベノミクスによる経済成長、バブル経済の再来の夢でしょうか?欲しいものもなくなり、金で金を買うしかないギャンブル資本主義経済の崩壊の悪夢でしょうか?大企業だけが儲けて、中小企業にはお金が回ってこない、あるいは、若者たちを生活苦に追い込む格差拡大社会でしょうか?年金が先細り福祉政策も縮小される将来でしょうか?人口減少、超高齢社会による社会の衰退でしょうか?私たちも個人的に、徐々に年老いて死ぬこと、せめて、安らかに死にたいという幻でしょうか?私たちはまさに将来の見えない、八方塞がりの社会に直面しているのかも知れません。しかし、神からくる「幻」はそのようなものではありません。「幻」とは人間の経験でありながら、どこか人間の外側からやって来る経験なのです。
3.剣を鋤に、槍を鎌に打ち直せ
「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」ということがイザヤの見たイメージでした。武力を放棄するということ、これは歴史的な人間的経験の延長線上からは多分出てこない夢であると思います。歴史的な人間的経験の延長線上から出てくることは「力には力」という現実主義です。しかし、理想を失った「現実主義」は単なる現状追認にすぎず、人間の堕落であり、滅びではないでしょうか。むろん、現実を直視しない単なる理想主義は単なる空想であり、無力です。この「現実主義」と「理想主義」の分裂こそ現在の世界の悲劇であり、闇の暗さの原因であると思います。その中で、信仰による幻こそ、現実を踏まえ、しかも現実を造りかえる勇気を与える力なのです。私たちは「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という幻、夢、預言を高く掲げて歩むことが求められています。
4.語られるべきことは語られた
今朝の箇所は、2節の「終わりの日に」という言葉から始まります。「終わりの日に」多くの民がイスラエルを目指し、エルサレムにやってくるという幻です。イスラエル中心主義、エルサレム中心主義の危険な宗教の香りがないわけではありません。しかし、聖書は、エルサレルが中心であるとか、イスラエルが中心であるとかは、言いません。「主の教え」、「御言葉」が中心であり、それが、エルサレムから出ると言います。私たちは、「終わりの日」は、イエス・キリストの到来において、すでに私たちのただ中で、出来事として起こっていると信じています。主イエスは、「剣を取る者は剣で滅びる」と語られ、非暴力抵抗の十字架の道を歩まれたことを私たちはすでに知っています。主イエスの生き方はまさにイザヤなどの預言者の伝統の線に沿ったもの、その幻の成就であると言ってよいでしょう。語られるべきことは、すでに語られているのです。主イエスは、「あなたの神を愛せよ」、そして「隣人を自分のように愛せよ」。この二つにまさる掟はほかにない、と言われました(マルコ12:28~31)。さらに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われ、「敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての大切な価値なのです」。(西南学院「平和宣言」)。あるいは、今年の教会の年間聖句である、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)ほど、素敵な言葉はないのではないでしょうか。「終わりの日」はイエス・キリストの到来によって、その教えと十字架の死と復活によってすでに実現しつつあるのです。これが私たちの描くヴィジョンです。「打ち直す」とは、現在あるものの用途を変えることです。かつて、身の回りの金属や、お寺の梵鐘まで、供出して、銃や飛行機などを造ったと言われています。しかし、戦争に敗れた国も、戦争に勝った国も、これからは「剣を鋤に、槍を鎌に」打ち直すことで戦後のスタートをしたはずでした。しかし、世の中は、依然として、戦闘機や軍艦、そして原水爆弾を造り続けているのです。語られるべきことは決定的に語られているのに、人はこれに耳を傾けず、再び、滅びの道を歩み始めているのです。
5.主の光の中を歩もう
しかし、いったい、なぜ、イスラエルとユダは主なる神から捨てられ、国を失ってしまったのでしょうか。それはヤコブの家が「普通の国」となってしまったからです。「この民がペリシテ人のように占い師や魔術師を国に満たし、異国の子らと同盟を結び、銀と金というお金と物質的繁栄を求め、軍馬と戦車に満ち、偶像を礼拝し、人間が卑しめられ、人が人として生きられずに、低くされていた」からです(2:6~8)。国の指導者たちは、堕落し、貧しい者、弱い者の人権が踏みにじられていたのです。「どうして、遊女になってしまったのか。忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに今では人殺しばかりだ。…支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取りあげられない」(1:21、23)。このような国は主なる神から見捨てられ、滅びるのです。いや、自滅すると言ってもよいでしょう。
預言者は、「力には力を、剣には剣を」ではなく、「主の光の中を歩む」ようにと勧めています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)というこのイザヤの言葉は、ニューヨークの国際連合本部のレリーフに刻まれていると聞いています。同じ思想が日本国憲法の「前文」の平和思想の中にも響いています。そして預言者イザヤがそうであったように、このようなヴィジョンは、挫折、敗北、悲惨、苦難の経験を経て学ばされたものなのです。私たちには、ヴィジョンはあり、語られるべきことは語られているのです。しかし、自分たちの欲望により、嘘・偽りにより、傲慢により、安楽に過ごしたいという願いによって、これに従おうとはしないのです。今朝の礼拝招詞で、ヨハネ12:35~36に耳を傾けることで私たちは礼拝を始めました。平和の主イエス・キリストとその歩まれた道こそ「光」であります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くか分らない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と勧められています。私たちは今日、どこか暗闇に追いつかれ、飲み込まれそうな勢いです。しかも日本社会のその暗闇は、富と力と安楽な生活を約束するという「光を装った暗闇」であり、相当手ごわいものです。しかし、私たちは「力には力を」という「現実主義」という名の暗闇に追いつかれてはならないのです。
このままでは、再び私たちの国、私たちは、神から「捨てられる」いや、「自滅の道」を刈り取ることになるかも知れません。光を示された私たちは、「主の光の中を」歩まねばなりません。現実主義やら、人間的予測やら、その道の専門家らと呼ばれる人の、もっともらしいアドヴァイスやら、人間の経験の延長線上で物事を考えるのではなく、預言者と主イエスの指し示す、光の中を歩みましょう。(松見俊)
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