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2016.8.17 「ヤコブの遺言」 創世記47:27-31

1 イスラエルの祝福(27-28)

 ヤコブはカナンの地において130年間生き、そしてエジプトで17年生きたのです。いわゆる老後生活をエジプトで生きたのです。人生の最後の17年を、これまでと環境、文化の違うところで生きたのです。世界の大飢饉の中で、生きのびるために、子どもであるヨセフの勧められたところとして、これまでと全く違うところに生きたのです。

 そのなかにあって、「そこに土地を得て、子を産み、大いに数を増した。」(27)とあるようにイスラエルは祝福されていったのです。ヤコブは、ファラオが「最も良い土地に父と兄弟を住まわせるがよい。ゴシェンの地に住まわせるのもよかろう」(47:6)と言われたように、ゴシェンの地に住んでいきます。そして、イスラエルの民はゴシェンの地において、大いに数を増やしていったのです。当時は大飢饉であったのです。その中にあって人数が増えていくのです。このことがどれだけ恵まれ祝福された出来事であったのでしょうか。人数が増えていくためには、それなりの食糧が必要であり、実際にそれなりの食糧と家畜があったのでしょう。だからこそ、このことを、神様による祝福として受けるのです。これまでも神様の祝福は目に見えるかたちで、人数が増え、財産が与えられ、豊かになるというかたちで表されてきましたが、この箇所においても、神様からの祝福とは実際に見える形としてあるのです。

 

 しかしまた、今、私たちが生きる現実で、どのようなことが神様からの祝福として受け取ることができるでしょうか。・・・すでに世界の人口は70億を超えるといわれます。そのような中で単純に人口が増えることを祝福と受け取ることはできないかもしれません。また、食べることができない貧困の中に生きる者もいれば、毎日多くの食料が捨てられているという現実において、生きていくための、十分な食料が与えられていることを、本当の神様からの祝福として受け止めているとも言えない、感じていないのではないでしょうか。今、私たちは、神様の祝福をどのように知り、どのように目に見て、感じていくことができるのでしょうか。

 今の日本では、食べ物は好き嫌いをいって、食べたくないということができるほどに、食べ物があふれるほどにあります。そしてまた、生まれてから、1才半、3才と無料の検診があり、地域によって違いますが、だいたい小学校までは無料で病院に行くこともできます。小学校、中学校は義務教育として学ぶことができるのです。子どもを育てるだけの環境は整えられているはずなのです。それでも、少子化という現象が起こり、子どもは少なくなっています。いったいどういうことなのでしょうか。私たちは、子どもを必要としているのでしょうか。

 

 単なる働き手としては、労働の機械化が進む中、必要が少なくなり、実際に人間の仕事が少なくなっていることは感じられる現実です。人間、生きるために考え、社会は便利になったのでしょう。しかしそのことから人間が必要なくなっている、という奇妙なことが起こっているのです。人間は、どこに着地点を見出しているのでしょうか。子どもは、わたしたちの未来を託す存在であり、私たちが考え、作りだし、守り続ける、世界のこれからを生きる者たちです。私たちは未来に生きる者に対して、責任を持つのです。私たちが作りだしていく世界を、子どもたちが生きるのです。

 そしてまた、それは物質的なものだけではなく、わたしたちが守り続ける信仰を受け継いでいく存在でもあるのです。私たちは子どもの存在を喜びたいと願うのです。

 わたしたちが神様から与えられている祝福とは・・・どのようなものでしょうか。心の安らぎや、幸せ、困難に立ち向かう勇気、未来に希望をみること。私たちはそのようなものを受けるために、現実の目の前に何を必要としているのでしょうか。

 以前の朝の祈祷会で、「神と冨」どちらに仕えるかということを学びましたが、「天に冨をつむ」ためには、他者のために使った冨、財産が、「天に積んだ冨となる」と学びました。神様が、他者のために使われたもの。それは自らの命をかけて、私たちに祝福を与えてくださった、イエス・キリストの十字架という出来事です。私たちが得た、神様からの祝福とは、それはまず神様が、私たちのために働かれたイエス・キリストの十字架という、神様の自らの従順の出来事であり、私たちはそこに本当の祝福をみることができるのでしょう。

 

2 ヤコブの遺言(29-30)

 イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」ヨセフが、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えると、「では、誓ってくれ」と言ったので、ヨセフは誓った。

 

 46章において、ヤコブはカナンからエジプトに向かうとき、神様に礼拝し、そこで神様に出会うのです。

 そして神様はこのように言われました。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(46:3-4)

 「わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」これは、ヤコブがエジプトに行くにあたって、祝福を受ける約束の大切な言葉です。ヤコブは、神様との約束のうちにエジプトに来たのです。そして、神様が主権をもって連れ戻してくださることを信じて生きたのです。今日の箇所29節からの言葉はその46章の言葉に合わせて語る、ヤコブの遺言なのです。

 

 ヤコブはエジプトではなく、約束の地に葬ってほしいと願います。エジプトにおいて、イスラエルの民は増え、それだけの祝福のうちに生きていたヤコブです。それでもヤコブはエジプトに定住することを求めなかったのです。冨、権威、安全を、ヤコブはエジプトに見出すことはなかったのです。ヤコブは、目の前に見える誘惑に負けることなく、神様との約束を大切にしたのです。ヤコブは、エジプトにいることは神様の導きと信じ、そしてそこで一生を終えることになると感じていたのです。しかし、それでも自分がエジプトに染まることはなく、約束の地に帰ること、つまり神様の約束に従い続けると信じたのです。そして、ヤコブは死に向かうこの時にあっても、神様の祝福が続いていかれることを信じたのです。信仰の伝承を信じ、だからこそ遺言としてヨセフに神様に仕えることの大切さを伝えるのです。

 ヤコブはアブラハムが買い取った「先祖たちの墓」に葬ってほしいと願うのです。先祖の墓として、アブラハムがサラの墓を買いました。「その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。」(23:19)この墓に、25章においてアブラハムが、そして35章にイサクが葬られました。

 先祖たちの墓に葬ってもらうことは、これまでの先祖たちの信仰、そして神様からの祝福が継承していくための行為です。ヤコブはこの埋葬の行為をヨセフにお願いしました。それはヤコブからヨセフへと、祝福が継がれていくことを願った出来事でもあります。ヤコブは神様との約束、その祝福と信仰が、ヨセフによって引き継がれていくことを願ったのです。

 

3 行為による祝福の継承を表す(29)

 ヤコブは、ヨセフに、腿の間に手を入れて誓うことを願うのです。この行為は、アブラハムが家の全財産を任せている年寄りの僕にイサクの嫁を探させるときに求めた行為と同じ行為です。この行為によって、僕はアブラハムの命令に従うことを誓いました。アブラハムにとってみれば、大切なイサクの嫁、それはアブラハムからイサク、イサクからその子へと受け継がれていくための、祝福の継承のための大切な思いだったのです。ここでヤコブがヨセフに求めるのは、同じように信仰の継承です。ヤコブはアブラハムを思いおこし、神様による祝福と、その祝福に応える信仰を覚え、これからもヨセフから、神様の祝福が受け継がれていくことを願い、ヨセフに誓いを求めたのです。

 

4 夢の実現(31)

 最後の31節は、原文では、「イスラエルは、寝台の枕もとにひれ伏した」となります。この出来事は、ヨセフの夢を思い起こさせます。37章において、ヨセフは「自分の束がまっすぐの束になり、兄たちの束がひれ伏した」、「太陽と月と11の星が、自分にひれ伏した」とそのような夢をみたと言います。今日の箇所で、父ヤコブがヨセフにひれ伏したことによって、ヨセフの夢、「太陽と月と11の星が、自分にひれ伏した」という出来事が実現するのです。

 原文では、「ひれ伏した」とありますが、新共同訳では「感謝を表した」とあります。この出来事はヨセフという権力者にヤコブがひれ伏したのではなく、ヨセフの誓いをヤコブが心から感謝ことを表しています。そのような意味で、ヨセフの夢、「太陽と月と11の星が、自分にひれ伏した」という夢は、権力者に対しての恐れや尊敬の心からではなく、神様の信仰が守られることに対する感謝の心を表すことになるのです。

 エジプトにおいて死を迎えるヤコブが、安心して死を迎えるのです。それは自分が神様との約束のうちに生きて、死を迎えることができること。そしてその約束、神様からの祝福がヨセフへと受け継がれていくということに安心し、感謝するのです。 ヤコブはヨセフの誓いを喜びました。それは、神様の祝福が、このエジプトにおいても受け継がれ、そしていずれ連れ戻されるということが、神様によって必ず守られることを喜んだのです。