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2016.8.21 「勇気を出して踏み出そう」 (全文) マルコによる福音書15:42-47

1:  墓に葬られた方

 まず、今日の箇所「イエス様が墓に葬られる」という場面ですが、「亡くなられた方をお墓に葬る時」それは、私たち人間の感覚としては、希望の時というよりも、別れの時であり、悲しい気持ちになる時ではないでしょうか。救い主、イエス・キリストは死なれました。そしてその主なる方が、ついに墓に葬られていくのです。

 わたしたちはこのあとの16章における復活の出来事を知っていますので、この時が復活のための道、その一つの出来事だと感じるでしょう。しかし、実際その場にいた人々、この場面だけを知る者、むしろこの場面に生きていた、ここに出てくるアリマタヤのヨセフにとって、この時はどれほどの悲しみ、痛みの時だったのでしょうか。この時のアリマタヤのヨセフの気持ち。それは私たちがこの世に生きている中で、家族や友人の死を目の前にしたときの悲しみと同じようなものであったでしょう。私たち人間は、どれだけ信仰をもっていても、この世における家族との別れ、また親友や信頼する者、愛する者との別れは、とても悲しいものであります。

 そして、今、墓に葬られるということは、召された者との決定的な別れと感じる出来事でもあります。それぞれいろいろな考え方がありますが、やはり墓に葬られるということは、別れの時であり、悲しみがあり、痛みが伴うことなのではないでしょうか。

 今日の箇所において、イエス様は墓に葬られます。この出来事から、私たちはどのような希望を知るのでしょうか。どこに恵みや喜びを知るのでしょうか。墓に葬られた悲しみ。そこにはだれにも拭うことのできない心の痛みがあるのです。

 

 私たちはだれもがこの世に生まれ、そして死に向かって生きています。死はこの世との別れになります。神様によって命を与えられ、多くの人々と共にこの世界に生きて、共に喜び、共に悲しみ、そしてなによりも神様が共に生きてくださっている、その神様の愛を知り、その神様の愛を分かち合うのです。私たちは、神様から愛され、隣人と愛しあい生きる者とされているのです。そしてこの世と別れ、愛の完成者である神様のもとに帰るのです。これが私たちの人生です。

 死は終わりではなく、愛の完成者の方のところに帰る時です。それでも残された者は、悲しむのです。これまで共に愛を分かち合ってきた者として、神様の恵みを分かち合ってきた者との別れはどのような場合にあってもつらいものではないでしょうか。

 

 今日の箇所において、イエス・キリストが死に、墓に葬られることは、神様ご自身が、私たち人間と同じ痛みを知るためでありました。父なる神にとって、子なるイエスが死ぬこと、その痛みはどれほどであったのでしょうか。十字架で流された、そのイエスの血、そして裂かれていくイエスのからだをみるときに、神様はどれほどの痛み、悲しみのうちにあったのでしょうか。イエス様は「墓に葬られた」のです。それはバプテストでは使われないですが、使徒信条においてイエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」とあるように、死んで、葬られ、陰府にまで下って行かれたと言うのです。つまり、イエス・キリストは死に、墓に葬られ、「陰府」という絶望の根源までに下られた。イエスア様は墓に葬られました。イエス・キリストは、すべての人間が受けるべき、悲しみや痛みのうちに来てくださったのです。

 この道を歩まれたイエス様の心のうちはどのようなものであったのでしょうか。わたしたち自身、愛なる神様に召されるといっても、死に向かうことは恐れであります。そこに何があるのか。恐怖を覚えることなのです。イエス・キリストは、人間として、誰よりもこの恐怖を感じ、受けていた者であったのではないでしょうか。イエス様は父なる神にこのように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)このように叫び、死んでいかれたのです。

 イエス様は恐れと嘆きのうちに死んでいかれたのです。これがキリストの十字架です。そして今日の御言葉にあるように墓に葬られていくのです。むなしく、弟子などは逃げ出した中、だれもいない中、イエス様は墓に葬られていったのです。

 

2:  アリマタヤのヨセフ

 この時、イエス様を墓に葬った人はアリマタヤのヨセフという者でした。イエス様の弟子たちはすべての者が逃げ出していたのです。だれも近くにいませんでした。そのなかで「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」(15:43)がイエス様を墓へ納めるのです。

 「身分の高い議員」とはどのような者であったのか、というときに、さまざまな考え方がありますが、ここではユダヤの最高法院の一人であったと考えたいと思います。最高法院とは「イエスは神を冒涜する者であり、死ぬべきだ」と決定した者たちです。その中にあって、ルカによる福音書では、このアリマタヤのヨセフのことを、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた」(ルカ23:50-51)とも記されています。アリマタヤのヨセフは裁判の時に「イエスは死ぬべきだ」という言葉に、「同意はしなかった」。しかしその強い意見に押し切られた者であり、同意しなかったものの、反対し続け、説得することはできなかった者です。自分の意見を言うことができずに、権力ある力に押し切られたのです。そして、イエス様の十字架の時に沈黙していたのでした。

 そのような者が、ここで、勇気をだして、イエス様の遺体を渡してもらうようにとお願いするのです。アリマタヤのヨセフは勇気を振り絞ったのです。ほかの弟子たちが逃げ出し、だれもイエス様に最後まで付き従おうとしなかったなかで、ヨセフは勇気をだしてイエス様を十字架刑に決定したピラトのもとに行くのです。このような勇気はどこからでてきたのでしょうか。この勇気は、このあとの復活を知っていた者の勇気ではないのです。キリストの復活を求め、願ったうえでの勇気であったわけではないのです。

 このあとにおこる復活を求めて、復活の出来事を信じて、勇気をだしたのであれば、少しは理解できるのですが、しかし、この時のアリマタヤのヨセフは、この後に何が起こるかなどまったく知らなかったのです。アリマタヤのヨセフの行為として、一つに考えられるのは、イエス様がそのへんに放り出されてしまうことが受け入れがたかったという考えです。

 当時の十字架刑は死んだ者を放り出し、動物たちのエサとするという方法があったと言われています。特に、このあと安息日となれば、死んだ者はローマ帝国によって無残に扱われると考えられます。アリマタヤのヨセフは、そのようなことがないように。安息日の前に墓に葬ったのだと考えられます。また、別の意味では、ヨセフ自身が、自分ですでに作った墓に、キリストとされるイエス様を入れておくことで、自分自身もいずれ、入る墓に、少しでも希望を持とうとしたとも考えられます。ヨセフは神の国を待ち望む者でした。しかしそれは死後の世界に来られる神の国であったのでしょう。

 

 ヨハネによる福音書ではこのような言葉があります。

 

「マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。」(ヨハネ11:24)

 終わりの日に復活することは、もともとユダヤにあった考えです。ユダヤの議員であるアリマタヤのヨセフも、もちろんそのような信仰のうちにあったのでしょう。だからこそ、終わりの時に、イエスと共にいることに希望を持とうとしたのかもしれません。また、せめて自分が死ぬときに、その絶望に一緒にいてくれる人を求めたのかもしれません。どちらにしてもアリマタヤのヨセフは、今、キリストの復活を信じて、その希望から、「勇気をだして」イエス様を墓に葬ったのではなかったのです。

3:  神の与える恵み

 しかし、それでもアリマタヤのヨセフは勇気を振り絞り、一歩前に出たのです。実際に十字架刑を下したピラトのもとに行き、話をしたのです。目の前でイエス様を十字架に架けていったローマ兵のもとに行ったのです。最高法院の人々の圧力に負けていたヨセフが、勇気をだして一歩前に踏み出していったのです。

イエス様の弟子たちは、恐れて家の中に縮こまり、またはエルサレムからエマオへと逃げ出していた者もいたのです。そのような中で、確かな希望を持っていたわけでもない者が、勇気を振り絞って前に歩きだしたのでした。

 

ここに、本当の信仰を見ることができるのではないでしょうか。

これから良いことがある。またはこれから目の前に素敵な出来事が起こるというときに、そのようなことを起こしてくださる方を信じるのは、ある意味当たり前で、簡単なことでしょう。自分のためになる神様、これから自分にとって良いことを起こし、自分に利益をあたえてくださる。そのような神様ならば、だれでも信じるでしょう。しかし、それが本当の意味での信仰といえるのでしょうか。キリスト教の神様は、私たちの人生において、良いことも、また私たちの目線からみれば、恐ろしいことや悲しいことも起こされます。それでも神様は、そのすべての時に、わたしたちと共にいてくださる。そして、共に祈り、共に悲しみ、共に喜んでくださるのです。

苦しいことや、痛み、悲しみを取り除いてくれることが、本当の愛でしょうか。自分勝手な目線から良いことばかりが起こされることに、本当の意味での命の意味を見ることができるのでしょうか。時に痛みや恐れ、疲れることやつらいことがあっても、そこに一緒に立ち続けてくださること。苦しみと恐怖に立ち向かう時に、共にいてくれる方。そこに本当の愛があるのではないでしょうか。

 

本当の愛。それはただ苦しいことや、痛みを取り除くことではなく、苦しみの中にあって、共にいて、共に苦しみ、共に悲しみ、共に痛みを分かち合う。そこに本当の愛があるのではないでしょうか。

 

アリマタヤのヨセフは勇気を出して一歩踏み出したのです。それは、神様が愛を注いでくださっていることを信じた一歩です。勇気を出して踏み出したからこそ、そこに、本当の愛を知ったのです。このあとすでに神様はイエス・キリストの復活を計画されていました。そして事実キリストは復活されました。しかし、アリマタヤのヨセフは、この復活を見て勇気を振り絞ったのではなく、これから良いことがおこるためではなく、ただ神様を信じて歩き出したのです。「神の国を待ち望んで」(43)。神様が共にいてくださることを信じて、一歩前に飛び出したのです。

私たちは、神様の愛を感じとり、すべてを理解して、それから、神様を受けいれるのではないのでしょう。すべてを理解していなくても、神様の愛のすべてを感じとっていなくても、信じてただ神様にすべてを委ねるとき、そこで、私たちは本当の神様に出会うのです。死が終わりではなく、死を乗り越えて始まる、新しい命を与える方に出会うのです。

4:  共に苦しみ共に喜ぶ

今年度の私たちバプテスト東福岡教会の標語は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」となっています。主題聖句はⅠコリント12:27~28ですが、この箇所の前にはこのように記されています。

 

Ⅰコリント12:18~28

 

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(27-28)

教会は、主イエス・キリストをかしらとした体です。キリストの体は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26

神様は、私たちと共に喜び、共に苦しむ方として、イエス・キリストを送ってくださいました。十字架の主として、そして復活の主として、この世に御子イエス・キリストを送ってくださったのです。わたしたちには、すでに十字架から復活という道筋、希望をもって神様を信じる道が表されているのです。イエス・キリストは私たちと「共に苦しみ、共に喜ぶ者」となってくださいました。わたしたちは、神の体の教会として「共に苦しみ、共に喜ぶ」者とされていきたいと思うのです。

わたしたちは、今、隣にいる人のことをどれだけ知っているでしょうか。となりに座っている方は何を喜び、何を悲しんでいるでしょうか。また、自分の悲しみや喜びを、どれだけ隣の人に語って、共に祈ってもらおうとしているでしょうか。私たちは自分の見苦しいところ、恰好が悪いと思うところを隠してはいないでしょうか。それは人間として当然の思いかもしれません。しかし、私たちを造られた神様が、そのような部分こそを用いてくださると教えているのです。共に生きるために、「共に苦しみ、共に喜ぶ」ためには、弱いところを必要としているのです。そして神様が、お互いに痛みを担う者としてくださるのです。神様はそのように、見劣りする部分を引き立たたせてくださると教えるのです。

 

私たちは、共に苦しみ、共に喜ぶものとして歩き出しましょう。勇気をもって一歩踏み出しましょう。そこには必ず、神様の計画としての新しい命があるでしょう。私たちはただただ神様を信じて、隣人と関わることに勇気をもって一歩、歩き出したいと思います。