1: マルコの伝える復活
今日はイエス様の復活の場面です。しかし、このマルコによる福音書では、イエス様が復活して、実際に現れる場面はなく、ここで恐れおびえる女性たちの姿で終わります。マルコは今日の16章8節をもって突如として終わりを告げます。私たちの教会で使っている、新共同訳聖書では、この8節のあと、結びとしての記事が、1、2と9-20節とあるのです。しかし、この結びの箇所は、この福音書があまりにも突然な終わり方をすることから、マルコが記した、そのあとに付加されたものであると考えられています。本来のマルコの福音書は、今日の箇所8節で突如として終わった。そのような文書であったと考えられるのです。
そのように考えますと、マルコによる福音書では、イエス様の復活の場面において、若者が現れますが、実際に復活のイエス・キリストが女性たちの前に現れ、そして、弟子たちの前に現れたという、復活のイエス・キリストが登場する場面はなかったということになるのです。それは復活があったのかということ自体に疑問を与えるものともなりますが、もっと別な見方をすれば、そこにマルコの伝えたい復活があったとみることができるのです。
マルコによる福音書というのは、イエス・キリストが、実際に復活し現れてくださったという場面のない、そのような福音書です。そしてむしろ、今日の箇所の7節にありますように、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と告げられる、その言葉によって、復活を知らせるのです。この言葉こそ、マルコが私たちに伝える、イエス・キリストの福音であります。私たちは、このマルコが伝えようとする、イエス様による福音に目をしっかりと向けていきたいと思います。
2: 墓に向かう女性たち
今日の箇所で、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという女性たちが、イエス様に、最後の奉仕をしようと、出かけていくのであります。女性たちは、イエス様の死んだ体に油を注ぐため、香料を買い、死んだイエス様のために出かけていったのです。この時の女性たちの思いは3節にありますように、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるか」(3)という思いに集中していました。なによりも石がどかされることがなければ、イエス様に最後の奉仕をすることができないのです。女性たちの思いは、石をどのようにしようか。そのような思いに包まれていたのです。
しかし、ついてみると、石はすでにわきに転がしてありました。石はどかされていたのです。本来、文章には主語があり、述語があります。「誰が」、「なにをした」と語るのです。しかしここでは「石はどかされていた」と語ります。これは受け身の文章です。「誰が」、「なにをした」のではなく、なにかによって、「された」という受け身のものであり、ここでは、「石が動かされた」と語るのです。
これは神様を主語とすることなく、神様の御業を表す書き方です。受け身で記すことで、「神が」という神の御業であることを、直接的にではなく、隠されたものとして主の御業を表すのです。「石はどかされていた」のです。そしてそれは、「神様が石をどかした」と言っているのです。
この時、女性たちの向かっていたのは、死のうちにあるイエス様のところでした。十字架のうちにあって死なれ、そして墓に納められたイエス様に奉仕をしに出かけたのです。ここには神様と人間との大きな石、大きな壁がありました。女性たちはイエス様の死を見て、絶望し、悲劇のうちに歩み出していたのです。そこに希望があったとは言えないでしょう。
見ているのは、主なる方の死という絶望でした。女性たちは、墓の中、つまり死のうちにおられるイエス様を探しに来たのです。それは、悲劇の出来事として十字架の死を捉えた見方です。その悲劇の中に、イエス・キリストを見出すことが出来ないこと、イエス・キリストの十字架の死は、悲劇としては、その場所に置かれていないことを、この石がどかされていたことが知らせるのです。「石はどかされていた。」つまり「神様が石をどかした」のです。それは神様が暗闇に向かい歩き出している女性たちとの、大きな壁、死という石を取り除いたということです。そして、死のうちに絶望に向かっていた女性たちに、新しい命の道を示されたのでした。
イエス・キリストの十字架。それは、確かに苦しみであり、その死は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ぶほどの苦しみであったのであります。しかし、そのイエス様はもはや、その死の中に留まっておられるのではなく、復活され、先にガリラヤへと行かれることを、告げられるのです。
3: 弟子たちに告げなさい
ここで、女性たちは、「白い長い衣を着た若者」に出会います。この者は神様の御言葉を知らせる者。そういう意味で天使とされる者、神様からのメッセージを伝える者です。
マルコ16:6-7
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
天使は「イエス様は復活された」と告げます。そして続けて、二つのメッセージを語ります。
一つ目は、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」というのです。ここでは「弟子たち、そして特にペトロ」にイエス様の復活を告げなさいと言います。ここにペトロだけ名前がありますが、このペトロの名前は、このあとの教会の中心的指導者となったペトロを弟子の筆頭として際立たせるために書いたのではないのです。むしろ、このペトロはイエス様の十字架に向かって3度もイエス様を「知らない」と言ったのです。ほかの弟子たちもイエス様を裏切り、見捨て、離れていきました。そしてなによりも、3度もイエス様を「知らない」と言い、呪った者、ペトロです。だからこそ聖書はこの弟子たちに「イエス・キリストの復活」を伝えなさいと言うのです。これはイエス様を「裏切った者」「見捨てた者」に対して、「私はあなたを見捨てることはない」という福音のメッセージです。だからこそ、だれよりも重い罪責感の中にあるペトロを名指しで示し、「わたしはあなたを裏切らず、あなたを見捨てない」と語っているのです。これが復活のイエス・キリストからの一つ目のメッセージです。
6月からバプテスマクラスを行いましたが、その1回目で学びましたことの中に、手を使って、私たちのほうが手をつかんでいるのではなく、神様が私たちの手をつかんでいてくださるということを学びました。このことは目に見えますし、子どもたちにもとてもわかりやすかったようです。主は、私たちを見捨てることはないのです。神様はわたしたちの手を離されないのです。神様は、十字架という悲劇のうちに、復活という希望を与えられました。それは、私たちが生きる希望を見失い、神様を見失い、生きる気力を失う中で、それでも、神様が私たちの手をつかんでくださっているという希望です。
復活の主は、どのような時にあっても私たちのことを掴まえ、そして捕えていてくださるのです。神様は、私たちと共にいてくださるのです。
そして二つ目のメッセージとして「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。」というメッセージです。復活されたイエス・キリストはここにはおられない。あなたがたより先にガリラヤへ行かれるのです。ガリラヤとは、イエス様が伝道を始められたところであります。イエス様はガリラヤで神の福音を宣べ伝え、「「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と言われたのです。そしてまた1:38からの箇所では、イエス様が「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(1:39)ともあります。イエス様は、ガリラヤで福音を宣べ伝えられたのです。
そしてまた、ガリラヤは、イエス様が弟子たちを招かれた場所でもありました。イエス様はガリラヤ湖のほとりで働いていた、「ペトロとアンデレ」「ヤコブとヨハネ」を弟子とされたのです。弟子たちは、ここでイエス様に出会い、イエス様に召しだされ、弟子となっていったのでした。そのような意味で、ガリラヤは弟子たちが日常的に生活をしていた時に、キリストに出会った場所です。日々の生活の中、普通に生活をしていた者が、命の方、イエス・キリストに出会った場所なのです。新しい命の道を歩き始めた場所、それがガリラヤなのです。イエス様が、先にガリラヤへ行かれる。それは、新しい命の出会いを先立って導かれるイエス様がいることを示します。イエス様はガリラヤで待っておられるのです。それはまさにマルコが登場させることのなかった復活のイエス・キリストに出会う場所です。ガリラヤとは、私たちが復活のイエス・キリストに出会う、その意味を、教える場所なのです。
ガリラヤへ行くこと。それは、もう一度、イエス様がなされた福音宣教の業に立ち返っていくことであります。多くの人々と共に喜び、苦しまれた、イエス・キリストの業に立ち返っていくことです。ガリラヤへ向かい、復活のイエス・キリストに出会っていくこと。それは、この復活のイエス・キリストに出会う中で、もう一度、イエス様のなされた、地上での業、その地上での福音宣教の業を覚えること。多くの苦しみの中にある人々と、共に歩まれ、共に苦しみ、共に痛み、共に喜ぶイエス・キリストの様の業に立ち返ることでありました。
イエス様の人生を振り返る時。その中心に、イエスの十字架があります。そしてイエス・キリストの復活の恵みをいただくとき、わたしたちは本当のイエス・キリストの十字架に立ち返ることができるのです。復活の恵みを受けて、私たちは十字架の苦しみ、その死に立ち返る者とされるのです。
イエス・キリストは、地上の業において、多くの苦しむ人々と連帯されたのです。そして、その中心にある業こそ、十字架の業です。私たちが、復活のイエス・キリストに出会っていくこと、それはこの苦しみを共に担う、その苦しみのうちに、キリストの新しい命があるということ、痛みの中にある者と共に生きる中で、本当の命を見つけ出すことができることを教えるのです。
今日の礼拝は、夏期学校の開会礼拝としても行われています。このあと夏期学校としてバーベキューや工作を行う予定です。私たちはこの時を通して、共に生きるということを考えたいと思うのです。隣の人と話をして、隣の人が、今、何を考えているのか、どんなことに困っていて、何を必要としているのか。またどんなことを喜んでいるのか。そのようなことを知り、分かち合い。そこから初めて、私たちは共に生きる者となることができればと願っています。別の箇所になりますが、イエス様の復活の記事として、イエス様は復活されたたあと、一緒に食事の席に着き、祈り、パンを裂かれたこと、そして魚を焼いて食べたことなども記されています。イエス様はその地上の人生においても、共に食事をした記事が多く記されています。今日は、イエス様がなされたように、一緒に食事をすることから、共に生きることの恵みを分かち合いたいと思います。
4: 恐れ
最後に、この女性たちが、正気を失い、誰にも何も言えなかったこと、その「恐れ」ということを見ていきたいと思います。この言葉こそ、まさに、この女性一人一人が、今、このとき、十字架の苦しみの中におられる、イエス・キリストに、今一度出会っていた、自分自身の罪のために、十字架で苦しまれている、イエス・キリストに、今一度、出会っていたことを指している、そのような言葉なのではないでしょうか。私たちが、十字架のイエス・キリストに出会うこと、それは、共に、私たちの苦しみを担われる十字架を見るだけのものではなく、まさに、私たちの罪の重さによって、苦しまれる、イエス・キリストに出会うことです。
それは、決して、単純に、喜べる出来事でもなければ、楽しい出来事でもありません。むしろ、私たちが、その自分自身の罪の重さを知る、その罪の本当の意味を知っていく、時なのでもあります。私たちは、その自分の罪によって、救い主であるイエス・キリストが、苦しまれる姿に出会う時、誰かに話すことなど、できるわけがないのではないでしょうか。
自分自身の罪の故に、苦しまれる方、イエス・キリストがいるのです。私たちは、そのイエス・キリストが、私たちの罪を担われたことをしっかりと見つめなければならないのです。そこに恐れが生じない者などはいないのではないでしょうか。そしてそのうえで、私たちは本当に、十字架のイエス・キリストに出会う者とされるのです。そしてまた、私たちは、そのときにこそ、本当に、復活のイエス・キリストに出会う者にされていくのでもあります。私たちは、この主イエスの恵みを、しっかりと受け取り、そして、十字架のイエス・キリストが、私たちに出会ってくださること、そして、復活のイエス・キリストが、私たちに希望を与えてくださること、そのことを受け取りましょう。
主である、イエス・キリストが、私たちの苦しみを担い、そして贖ってくださる、その中で、その希望の中でこそ、私たちは、苦しみの中でも、悲しみの中でも、共に歩む者と、共に、主へと向って歩む者とされていきたいと思います。
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