今日は、2016年度の主題聖句からの説教となります。4月には、今日の箇所の前、Ⅰコリント12:12-26から説教をいたしました。今日は、4月に話をしたところからの続きで、今年の主題聖句である「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27~28)という御言葉を含む、27節から、今年の標語「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」ということについて、学んでいきたいと思います。
1: 同じ聖霊からいただいた賜物
4月にもお話をしましたが、このコリントの信徒への手紙が記された時、実際にコリントの教会には争い、分裂がありました。コリントの教会では、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と言いあっていたのです。誰がすぐれた言葉を語ったのか、そして誰がすぐれた弟子であり、権威を持つものなのか。だれからバプテスマを受けたのか。つまり誰が一番偉いのかということで争っていたのです。
この問題に対して、パウロは、教会のことを「キリストの体」とし、人間の体から比喩的に、お互いの必要性を教えたのです。
「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」(15-16)と語っています。だれも「お前は要らない」「あなたは必要ない」と言うことはできないのです。
今日の箇所では、このように教えます。28節「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(28)
教会には様々な者が立てられています。それぞれ違う賜物を持つものが、それぞれに神様に立てられて、教会というキリストの体が作られているのです。ここでは、具体的に第一に「使徒」、第二に「預言者」、第三に「教師」が立てられていると教えます。
この順番は第一に「使徒」として、神様の御言葉を受け取り、語り、教会を建てる者。そして第二、第三と「預言者」「教師」として、その御言葉を受けとった教会が、信仰共同体として働いていくための指導をする者。「使徒」「預言者」「教師」というそれぞれの賜物から、教会が作られていくということを教えるのです。
そして、その次には「奇跡を行う者」、「病気をいやす賜物を持つ者」、「援助する者」、「管理する者」、「異言を語る者」など、それぞれに賜物をいただいていることを教えます。ここでは、聖霊からいただいた働きとして、「奇跡を行う者」、「病気をいやす賜物を持つ者」と、目に見えた奇跡的福音活動をする者があり、そして同じ聖霊からいただいた働きとして「援助する者」、「管理する者」という目には見えにくいけれど、大切な働きがあるとことを教えるのです。「奇跡を行う者」と「病気を癒す賜物を持つ者」という、神様の福音伝道を目に見える形として働いている者もいれば、「援助する者」と「管理する者」と目には見えないけれど、教会が神様の御業をなしていくためには、それぞれに与えられた働きがあるというのです。そして、最後に「異言を語る者」という働きがあることを記しています。
「異言」という賜物は、神様から与えられた御言葉を、理解することができない言葉で話すことができる超自然的出来事を行う者とされています。当時のコリントの教会では、「異言」を語ることができる者がいたとされます。この「異言」自体は現代でもあるとされる、神様からの一つの賜物です。しかし、そのような超自然的出来事を行う者が、素晴らしい働きをしていると考えられるところに、問題が発生していたのです。
だからこそ、ここでパウロは「異言」を語るという賜物に気を付けるように促すためにも、この働きを一番最後に置いている。そしてまた「異言を語る」という賜物も、これまで教えたそれぞれの賜物と変わることのない、同じ聖霊による賜物の一つであるということを教えているのです。
2: イエスは主である
私たちは、それぞれが神様から召しだされた者であり、それぞれいただいた賜物によっての働きがあるのです。それが目に見えるものである時もあれば、目に見えない働きもあります。素晴らしい働きだと感じることもあれば、コツコツと地道な作業を続けるという賜物もあるでしょう。
私たち東福岡教会も、本当に多くの違いを持つ人々に支えられている教会です。まず、共に礼拝をするという、一番の神様への応答の行為をする人。また礼拝のために奉仕をする人。聖書を教える人、学ぶ人。賛美する人、祈る人。献金をする人。伝道のために、手紙を書く人。掃除をする人。建物を管理する人。花の管理をする人。落ち込んでいる人に声をかける人。誰にも知られずに、目の見えないところで祈る人。執事として、目に見える形で教会を支える人。病気やけが、遠くに住んでいるということから教会に来ることはできないけれども祈っている人。
本当に目に見える働きから、目に見えない働きまで数えれば、まだまだ、さまざまな働きがあるでしょう。神様はこの働きの一つ一つを喜んでくださっているのです。
教会には、さまざまな人がいるのです。そして、それぞれに賜物も違うものです。目に見える働きだけが神様の与えた賜物ではありませんし、目に見えない働きも同様に、同じ聖霊によって与えられたものなのです。そして、それぞれに違う賜物がある者として生きる者が、何をもって一つとされるのか。その中心にあるのは「イエスは主である」という信仰告白によってつながるのです。この「イエスは主である」という信仰によって一つとされていく、それが信仰共同体としての教会であり、キリストの体なのです。
聖書はこのように教えます。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(Ⅰコリント12:3-6)それぞれに人間として個性を持ち、違いを持つわたしたちが一つとされるのは、ただ「イエスは主である」という信仰告白によるのであり、その告白を導く聖霊によるのです。私たちが行う働きは、違うことをしていても、目的は一つです。それは「イエスは主である」という信仰をすべての人々が受け入れるためです。そしてそれは「私は神様に愛されている」という喜びを、すべての人が感じ取り、受け取るための働きなのです。 そのために、私たちは「イエスは主である」という信仰を中心にして、お互いの違いを喜びたいと思うのです。
「あの人は要らない」ということはできないというよりも、「あの人がいてくれてよかった」と思える。神様との関係があり、隣の人との関係があるのです。「あの人は教会のために何もしていない」と思うことはしてはいけないというよりも、「あの人の存在が、教会に喜びを与えてくれている」と思うことができる。そのような信仰によって、キリストの体としての教会を表していきたいと思うのです。
3: 「弱さ」という賜物
わたしたちはそれぞれに違いを持ちます。考えが違うのであれば、それぞれの価値観も違うでしょう。しかも私たちは、基本的に自分に甘く、他者に厳しくなるものではないでしょうか。わたしたち違いを持つ者が、唯一と言っていいほどに、誰もが持っている同じもの。それは「神様に従い続けることができない」、「必ずどこかで神様から離れてしまう」「完全ではなく、必ずだれもが欠点をもっている」ということではないでしょうか。そして、だからこそでしょう、わたしたちは「イエス・キリスト」という救い主が必要であり、イエス・キリストなしでは、神様の前に立つことなど、だれもできないのです。私たちがそれぞれに持つ、それぞれの欠点は、ある意味、私たちがキリストにつながる大切な一部分なのではないでしょうか。
そういう意味では、私たちは、本来ならば、他者の弱さや欠点を見つけた時に「あなたは要らない」ということではなく、「あなたのその弱さがキリストを表している」と感じ取ることができるのではないでしょうか。そして同様に、自分の弱さや欠点も、そこにこそ神様の愛が表されていることを覚えましょう。私たちは自分の弱さや欠点を知る必要はあっても、自分の弱さを自分だけで背負い、自分の欠点を責める必要はないのです。私たちは、自分の弱さによって、キリストに出会うのです。
4: 神はあなたを愛している
もう一度、このコリントの手紙の12章の22節から読みたいと思います。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。
神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(22-28a)
聖書は、確かに、「弱く見える部分が必要だ」「見劣りのする部分こそが大切だ」と教えます。わたしたちは自分の弱さを喜んでいるでしょうか。そしてまた他者の弱さを喜んでいるでしょうか。私たちは「自分が好きになれない」と思う時、神様が「私はあなたを愛している」「あなたを尊く思っている」という、神様の愛を思い出しましょう。
私たちは主イエスによって尊ばれているのです。もし自分を弱い者と感じているならば、その弱さを喜びましょう。また、もし自分が強い者であると感じるのならば、全力をもって、イエス・キリストのために働きましょう。私たちは、主イエスによって尊ばれ、聖霊により、弱さも、強さをも、いただいているのです。主イエス・キリストは、その十字架と復活を通して、私たちの主となられたのです。私たちが主に従う道は、強い者が主にあって弱い者を尊び、弱い者のために働く道であり、弱い者が、その弱さのゆえに、主のみに信頼し生きる姿を表し、伝える道なのです。
5 共に苦しみ、共に喜ぶ
最後に、私たちは、今、この東福岡教会で共に生きていることを喜びたいと思います。今年度の標語は、「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」です。この標語にしたときに、何人かの方々に、「なぜ「苦しむ」が先で「喜ぶ」が後なのでしょうか」、と聞かれました。最初はただ、聖書が26節において「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(26)とあったので、「共に苦しみ、共に喜ぶ」としたのですが・・・何度か考えているうちに、私たちが「共に苦しむこと」はできても、「共に喜ぶ」ことの難しさを教えられるようになりました。
私の心が狭いのか、どれほど自分が幸せであっても、他者と比較してしまい自分よりも誰かが幸せそうにしているときに、なかなか共に喜ぶことができない自分がいるのです。私たちは自分が持っているものを、自分のものだと思っているとき、自分ができることが、自分の力の故だと思うときに、だれかと比較してしまうという呪縛から逃れることはできないのかもしれません。
私たちは何よりもまず、何もなくても、何もできなくても、自分が神様に愛されていることを感じ、受け取りたいと思うのです。そして、すべては神様から与えられたものであるという信仰に基づいて歩き出したいと思うのです。主イエス・キリストは、私たちのために、その命までも捨てて、私たちを愛されたのです。これ以上の喜びがあるでしょうか。私たちはこのイエス・キリストに愛されていることを喜びたいと思うのです。
今年度の標語「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」が、ただ掲げられた言葉ではなく、「イエスは主である」という信仰によってつなげられた者として、「共に苦しみ、共に喜ぶ」教会として、一緒に生きることを喜んでいきたいと思います。イエス・キリストは、今も、私たちと共に苦しみ、共に喜ばれています。私たちは、この「イエスこそを主」と告白して、歩んでいきましょう。
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