1: パウロとバルナバの仲違い
今日の箇所は、パウロの第二次宣教旅行にあたる場面です。この宣教旅行が始まる時に大きな問題が起こっていたのです。パウロとバルナバの仲違いです。パウロとバルナバはただ仲良しの友達ではなく、共に福音の宣教を行ってきた主にある兄弟です。ここでは、パウロとバルナバが、宣教旅行に誰を連れて行くかということで意見を衝突させたと記されています。
2: 共に生きる難しさ
私たち人間同士の関係において、意見が違うことはよくあることで、それ自体が悪いことではないでしょう。むしろ完全に意見を一致することは、私たち人間が求めるべきものではないでしょう。完全に意見が統一されることはとても危険なことなのです。違うものを受け入れない時、それは自分の考えを絶対化した危険なものなのです。お互いの意見を批判しながらも、否定せずお互いを尊敬する。一緒にいることが難しくなったとしても、どこかでお互いのことを理解する。そのような形の「共に生きる」という姿があってもよいのではないでしょうか。
3: 心の痛み
しかし、これまで主の兄弟として歩んできた者との関係が閉ざされることは心の痛む出来事です。パウロは心に大きな痛みを負っていたことでしょう。パウロの心の傷に追い討ちをかけるような出来事が起こります。パウロは宣教を続けていこうとしたのです。しかし、その道を、「聖霊がから禁じられ」「イエスの霊に許されなかった」のです。
パウロの道が閉ざされていくことがなぜなのかは記されていなのですが、ここにパウロの宣教の内実が問われていたのではないかと考えるのです。
4: 主の導き
イエス様はパウロの道を妨げられた。しかしそれは、道を閉ざし妨げたのではなく、新しく歩く道を備え導かれたのです。パウロは幻の中で、主の御心を聞くのです。パウロはマケドニア人の言葉を神様の導きとして聞き取ったのです。隣の人の小さな苦しみに耳を傾け、その弱さに目を向けたのです。
主イエスは、私たちの歩む道を導いてくだります。私たちが歩む道のすべてが、本当に正しかったのかはだれにもわからないのです。それでも、そこにイエス・キリストが共にいてくださるということは変わることのない事実なのです。私たちは、神様の御心をいつも聞きながら歩んでいきたいと思います。
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