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2016.10.16 「救いの系図」 (全文) マタイによる福音書1:1-17

 これまで、皆さんと共に、マルコによる福音書から学んできました。今日から、新しくマタイによる福音書から、共に学んでいきたいと思います。これから、マタイによる福音書から、さまざまなことを共に学んでいきたいと思いますが、私が、今回マタイを選んだ理由の一つに、マタイの最後に記されている言葉「大宣教命令」にあります。

 マタイによる福音書の最後には、このように記されています。

 「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(28:18-20)

 マタイによる福音書が記された時代。そこには、すでに信仰共同体としての教会がありました。キリスト者としての共同体があり、そこで、共にイエス・キリストから恵みを受け取っていたのです。しかしまた、当時の教会では、キリストを信じることと、キリストを信じて生活することとが、うまくかみ合っていない人々が多くいたのです。キリストを信じることから、キリストに従うことへと、うまくつながっていなかった。教会がそのような状態にあったのです。そのような教会、信仰共同体に向けて、キリストを信じて、生きることが、どのようなことなのかを、共に学ぶために書かれたのが、マタイによる福音書なのです。

 私たちは、これからマタイの福音書を共に読んでいきます。その中で、何よりも神様の愛をいただき、キリストを信じて、喜んで生きる者とされていきたいと思います。そしてまた、同時に、それではキリストを信じて生きるとは、神様に従うとはどういうことなのか、考えていきましょう。 そして、イエス・キリストが最後に残された言葉、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 この言葉に従って、新しい一歩を踏み出していきましょう。

 

1:  アブラハムの子 ダビデの子

 さて、今日はマタイによる福音書の1章になります。1章は、まずイエス様の系図が記されています。この系図は、なんとなくキリスト教に興味をもち、一度、聖書を読んでみようと思った者にとっては、そんな気持ちを躓かせる箇所になるのではないでしょうか。聞いたこともないカタカナの名前がずらりと並んでいるのです。先日、私の子も含めて、小学生の3人の子どもたちが、バプテスマを受けました。これから、聖書を読み、共に祈り、一緒に礼拝をしていきたいと思っています。

 私自身も小学生の時にバプテスマを受けました。もともと、自分の家庭では、毎日のように、家族で聖書を読んでいたので、何も考えずに、普通に読んでいました。しかし、いわゆる思春期という中学生から高校生のころに、悩みや疑問を持つ中で、自分できちんと聖書を読んでみました。そんなときに、このマタイの言葉、名前がずらりと並んでいることに、一瞬、戸惑いました。

 一つの書物として読むのに、これほど、興味をなくしてしまう書き方があるでしょうか。もう少し、最初に、その必要性や意味を教えてくれてから、系図を書いてくれればと思うのです。そのような意味では、似たような系図が記されているルカによる福音書では、イエス様の誕生、バプテスマのヨハネについて、イエス様のバプテスマについて、そしてイエス様が宣教を始める時が30才であり・・・と、そのあとに系図が記されているのです。系図を記すにしても、これくらい気を使ってくれれば、少しは読む気になるのに・・・とも思いました。先ほど言いましたが、似たような系図が、ルカによる福音書にも記されています。しかし、このイエス様の系図は、それぞれ内容に違いがあり、この系図が歴史的に正しいものであるとは到底言うことはできません。

 それでもこの聖書の系図を歴史的に正しいものと見ようとしたときに、様々な考え方がなされました。その一つに、ルカによる福音書は、もともとヨセフの系図ではなく、マリアの系図であり、マタイによる福音書が、ヨセフの系図であると、そのような考え方がなされたのです。カトリック派はこの考えを採用しています。この系図一つでも、様々な読み方があります。そこに聖書の深さがあるのでもあると思います。実際に系図の内容を見てみますと、400年をわずか4代でつなげていたり、やはりとてもではないけれど歴史的に正しいものと読むことは難しいと考えられます。

 それでは、なぜ、特に正しいわけでもない系図を、マタイはこの系図を一番最初にもってきたのでしょうか。そこには、それなりの意味があるのです。

 

 もともと系図というのは、誰がどこからきたのかを表すもので、誰かを権威づけるために記されるのではないでしょうか。日本でもそれぞれに系図を見る時に、自分の先祖には、こんなに偉い人がいたとか、自分の先祖はこんなに偉いのだから、自分も偉いのだと、権威ある者なのだと、考えるのではないでしょうか。人間はそこまでしても偉く、権威ある者となりたいのでしょう。

 このマタイによる福音書では、1節にありますように、イエス様はアブラハムの子、そしてダビデの子なのだと言います。ルカによる福音書は、これがアダムまでさかのぼるものとなっており、人類の救い主であることを語っているのです。アブラハムの子、そしてダビデの子。それはイエス様が、イスラエルの民が待望し、待ち続けていたメシア、救い主であるということを言っているのです。

 

2:  女性の名

 イエスは旧約聖書の時代から待ち続けていた、イスラエルの救い主であると記していることは確かなことであり、そこにイスラエルの救い主としてのイエス様を表しているのですが・・・だから、このマタイによる福音書が、アブラハムという信仰の父、そしてダビデという王様としての権威ある者として、イエス様は偉くて、権威ある者としてこの世に来られた者であるとだけ語っているとは言えないのです。その一つの理由に、この系図の特徴として、女性の名前が記載されているということ。しかも聖書においていわゆる権威ある者、信仰的に尊敬されているといえる者ではなく、むしろイスラエルの民にとっては汚点的な出来事のなかにあった女性たち。汚点というのはその女性のことではなく、イスラエルの民に問題があり、その女性たちを傷つけたという、イスラエルの民にとって、隠しておきたい罪の出来事といえるような女性の名前が記されているということです。

 そもそも、男尊女卑のこの時代に、系図の中に女性の名前があること自体が、とても例外的なことであります。それでも記さなければならないほど権威ある者、イスラエルの民の中でも特に功績を挙げた者、またその妻、いわゆるアブラハム、イサク、ヤコブの妻「サラ」「リベカ」「ラケル」、またはモーセの姉「ミリアム」などであれば、少しは理解はできます。ただただ、権威の主張としての系図ならば、その女性を載せることで、より一層権威的に高められる女性たちであれば、記載する意味はあるでしょう。 しかし、この系図には、そのような女性たちが記されているのではないのです。

 

 この系図に記されている女性たち。それはタマル(3節)とラハブ(5節)、そしてルツ(5節)とウリヤの妻(6節)、つまりバト・シェバ、そして最後にマリア(16節)が記されています。 この女性たちどのような人であったのかを少し見てみたいと思いますが・・・

 タマルという女性は、創世記においてヤコブの息子ユダの息子の妻として登場する女性です。ヤコブの息子ユダの息子の妻でありましたが、その夫の死後、子どもがいないのを嘆き、またそのことに対する義理の父ユダの冷たい態度から、遊女を装い、ユダと関係をもったのです。系図のでは3節に、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」と記されています。つまりユダという人間が神様の思いから離れて、そのなかで与えられた子ども、その者の子孫としてイエス様がいると言うのです。

 そしてまた、ラハブという女性は、いわゆる「遊女」とされる女性で、しかもユダヤ人ではなく「異邦人」でありました。イスラエルのエリコ攻略の時に、イスラエルの斥候を助け出した女性であり、エリコ攻略のあと、生かされていた異邦人です。それでも異邦人には変わらず、ユダヤ人からすればさげすみ、虐げ、共に生きることのない異邦人であり、また遊女とされるラハブの子孫として主イエスがいるのです。

 そして、ルツとい女性についてですが、ルツは、夫の死後、姑のナオミに従い続けた者として、聖書では正しい信仰を持つ者と記されています。しかし、このルツもまた、異邦人、しかもユダヤ人が最も嫌ったとされる「モアブ人」だったのです。そして、貧困のなかで、落穂ひろいをして、何とか生きていた、苦しみのうちに生きた者でもありました。このような貧困のうちに生きるモアブ人の子孫として、イエス様は記されているのです。

 そして、ウリヤの妻、バト・シェバについてですが・・・バト・シェバはイスラエルの王ダビデが部下ウリヤを殺して、自分のものとした女性でした。ダビデはバト・シェバのために、一人の人、しかも自分のために戦っている部下を殺したのです。これはイスラエルの救いの王として一番に掲げられるダビデの拭いとることのできない罪です。バト・シェバはそのような人間の欲望による罪に振り回された女性なのです。

 イエス様は、そのような者の子孫として記されているのです。

 そして最後に、マリアが記されています。マリアはカトリックではマリア像として、イエス様の母としてあがめられていますが、実際には、小さく、不安の中に生きた者です。イエス様が自分の子どもとして与えられえると聞いたとき、マリアは不安と躓きのうちにありました。そしてそれでも「この身になりますように」という信仰を持っていたのでもあります。 イエス様は、そのような不安と躓きの中にあって、信仰のうちに生きたマリアの子どもとしてこの世にきたのです。

 

 これらの女性、異邦人として軽蔑された者、罪ある者とされ、また貧困のなかにおり、人間の欲望に振り回され、不安の中に生きた者たちの子孫として、イエス様はこの世に来られたのです。イエス様の系図は、イエス様がただアブラハム、ダビデの子孫という権威ある者であるというのではなく、むしろ苦しみや痛み、人間の弱さのうちに生きてきた人間の中心に来られたということを表すのです。このような者をイエス様は受け止められた。その人間の弱さや罪、不安や痛みを受け止め、その隣に来てくださったのです。

 このイエス様の系図は、ただただイエス様が権威あるものであると、偉そうにするための系図ではなく、ここにイエス様が本当の救い主であるということ、人間の弱さに寄り添い、罪を受け止め、その罪のために、来られたことを表しているのです。

 

3:  苦難の僕 キリスト

 イエス様は、救い主、キリストとしてこの世に来られたのです。それは、確かに私たちと同じ人間となり、人間と共に生きた者として、そしてその人間のすべてを受け止めてくださった、救い主です。この系図は、このイエス・キリストの救いの意味を教えます。イエス様は、弱い者と共に生きるために、この世に来られました。主は、人間の苦しみや弱さに寄り添う方です。それは貧困という現実の生活の苦しみや、人間の罪に振り回される時、そして神様の導きの中で、戸惑いながらも信じる道を選んでいく、それぞれの人間の現実と共に生きる方なのです。イエス様は、そのような人間の心のうちにきてくださったのです。

 

 イエス様は、私たち一人一人の現実に寄り添い、共に生きてくださいます。この「他者に寄り添うこと」は簡単なことではないのです。この「共に生きる」「他者に寄り添うこと」は、どれほど難しいこと、そして苦しいことなのでしょうか。他者に寄り添うことは、ただ、遠くから誰かの幸せを願うということだけではありません。自分は何も痛みを伴わない、自分には何の犠牲も伴わない、自分の生活は確保され、不安はない。そのような中で行われている、いわゆる良い行いは、他者に寄り添うことではなく、ただの良い行いなのです。

 本当に、共に生きるということ、そして寄り添うということは、自分にも痛みを伴うのです。自分自身の人生が、その人に寄り添うことで、揺るがされるのです。私たちの主イエス・キリストは、この世に来て、私たちの弱さに寄り添ってくださったのです。そして、私たちと共に生きるために、私たちの痛みを共に受け止めるために、十字架の上で死なれたのです。神様は、私たちの命を救い出すために、このイエス・キリストの命を捨てられたのです。

 その命を十字架の上で切り捨てることによって、私たちは神様から命を与えられているのです。私たちの命は、キリストの痛みの上に与えられているものなのです。神様はそれほどまでしても、私たちと共に生きる道を選ばれたのです。罪ある者。貧困に生きる者。そして実際にお互いの罪のために、生きる道を見失っている者。不安の中に生きる者。イエス様は、人間のすべてを受けとめてくださったのです。たとえ、私たちがどのような者であっても、主イエス・キリストは、私たちの救い主として、私たちを愛し、私たちの隣にいてくださるのです。

 これが主イエス・キリストによる、私たちに与えられた救いです。

 

4:  愛されている者

 今日の系図が表すこと。それは主イエス・キリストは、私たちの救い主であるということ。しかもそれは、どのような者であっても、神様は私たちを愛しているという救いを表しているのです。私たちはすべてものが、神様に愛されています。私たちは、この神様の愛のうちに生かされているのです。それは、神様ご自身が、私たちの痛みを自分の痛みとして受け、私たちの悩みや苦しみを、共に悩み、苦しんでくださるという愛です。私たちは今、自分を見つめて、自分の好きなところはあるでしょうか。また嫌いなところはあるでしょうか。また他者を見つめて、好きなところ、嫌いなところはあるでしょうか。神様はそのすべてを包み込み愛されているということを覚えましょう。私たちはどのような者であっても愛されているのです。神様はその命をかけてまで、私たちを愛してくださっているのです。この神様の愛を受け止め歩いていきたいと思います。

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コメント: 1
  • #1

    かおり (土曜日, 27 11月 2021 11:30)

    心に染みる説教をありがとうございました。次回教会学校のメッセージでマタイの系図を話します。その参考に色々な資料を調べています。この系図を通して、私も神様の深い慈しみを子供達に伝えていきたいと思いました。ありがとうございました。