1.天から降ってきたパン
“私は天から降ってきたパンである”これはユダヤ人たちから見れば、とんでもない大嘘でした。なぜなら、彼らはイエス様がどこで生まれた誰の子であるかを、知っていたからです。彼らにとって神様はまさにもっと神々しく、天上の存在であるべきであったのです。私たちも、神を自分のイメージに閉じ込めてしまうことがないでしょうか。神は本当に人の子としてこの世界に降ってきてくださった、その事がイエス様を信じるのに最初人々の躓きとなったのですが、その躓きを越えてご自身を現してくださった神に感謝したいと思います。
2.父が引き寄せてくださる
“私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない”私たちが自分の力で神様のところへ行くことはできない、それは、神様がそのようにしてくださらなければできない、ことが言われています。
3.命のパン
「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」出エジプト記16章でのマナの話が出てきます。エジプトを脱出して僅か2ヶ月で、イスラエルの人々はモーセとアロンに文句を言いました。イエス様はここでマナの話をされて、マナ自体は食べればなくなる、そしてそれを食べた人も結局皆死んだとおっしゃいます。しかし、イエス・キリストという天から降ってきたパンを食べるものは死なないというのです。死なないというのは、もちろんこの世でいつまでも生きるというのではありません。聖書が伝える私たちが本当に生きるということは、イエス・キリストとの関係の中に生きて、生きることも死ぬことも、イエス様にお任せできること、瞬間瞬間を神に感謝して生きることです。
4.51節~主の晩餐の意義
肉と血、という言葉は、イエス様が本当にこの世に来られた私たち同じ人として生きたということ。体を持った歴史的な存在であったこと、その体が十字架に掛けられたことを表します。食べる、飲むとは、イエス様が捧げられたその体、命が私たちのためであったということです。イエス様の体の手と足に打ち付けられた釘の痛みは本当の痛みであった、イエス様が経験された、「神様に見捨てられた」という絶望の叫びは本当の絶望の叫びであった。それらは全て私(自分)の罪のためであったとしっかりと思い出して、感謝をして主の晩餐のパンとブドウ酒を頂きたいと思います。
イエス様と天の父のような親密さが、イエス様と私たちの間にも実現される。私たちがイエス様のように神様になるということではありません。主の晩餐のパンとぶどう酒を頂くことで、主が私たちの内にいてくださることを思い起こすことができる、主が私たちと親しい関係を作ってくださったことを私たちは感謝するのです。(酒井朋宏)
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