今朝は、礼拝において子ども祝福式がありますので、子どもたちに関係する聖書の箇所を選びました。「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた」という言葉で、み言葉は始まります。今朝のみ言葉は3つのメッセージを語ります。一つは、主イエスは、当時の子どもたちの評価に反して子どもたちを無条件に祝福されたということです。そして第二に、子どもたちを連れてきた人々をたしなめた弟子たちに対して、イエス様が憤られたことです。そして、この2つのメッセージを結びつけるキーワードは、3つ目の、幼な子のように、神の国を「受け入れる」ということです。
子どもたちにさわっていただくために
ここで話題になっている子どもたち(パイディオン)とは何歳くらいでしょうか?現在でも教育学で用いられています「パイディア」というギリシア語は教育、躾という意味がありますので、躾が必要な小さい子どもたちでしょうか?ヨハネによる福音書16:21ではこの言葉は「新生児」を意味しています。また、マルコによる福音書5:19~42では「タリタ・クミ」と、イエス様から呼ばれて、死の淵から引き起こされた少女の物語が語られており、その少女は12歳であったと言われています。ここで言う「子どもたち」の年齢はかなりの幅があると言って良いでしょう。私は、東日本大震災で心に深い傷を負った少女のことを忘れることはできません。震災後数か月して岩手県の大槌町小槌の仮説住宅を訪問しました。一年半後の、二回目の訪問の際は、子どもたちの宿題を手伝ったり、一緒に遊ぶというボランティアでした。そこに2人の女の子がきました。小学校の5年生くらいの年でしょうか。その内の一人は弟を目の前で、津波でさらわれてしまった女の子でした。彼女は、何があっても絶対に笑わないのです。堅い決意です。そして、その女の子の友人の子も彼女に付き合って、決して笑いません。國分美生という神学生の話に、一瞬、少し笑いかけましたが、強い意志でその笑いをかみ殺してしまいました。自分の目の前で可愛い弟が津波にさらわれていくのに何もできなかった自分に怒っているのでしょうか。運命といいますが、その過酷さに憤り、心を閉ざし、そのことが弟へのせめてもの弔いと考えているのでしょうか。よそから数日ボランティアに来た人になんか心を開かないとうことなのでしょうか。あれから、5年後、彼女たちは、今は、少しは笑うようになっているのでしょうか。子どもには、そんな芯の強さ、友達のことを思う心があります。弟のために笑うまいと決心したその女の子の想いの痛々しさだけではなく、健気(けなげ)な、人間としての尊厳すら覚えました。子どもたちも子どもたちなりに感じ、考え、苦しみ、悲しみを経験しているのです。マルコによる福音書10:13以下の物語では、「イエスに触れていただくため」と言われており、さらに、彼らを抱き上げ、手をおいて祝福された」と言われています。この口語訳では「抱き上げ」ではなく、「抱く」と翻訳していますので、イエス様が、子どもたちを抱っこして、手を置いて祝福してくださったとも取れるし、ちょっと抱っこには重たくて、両腕に抱え、ハグをしてあげて祝福したとも理解できます。「触れていただくため」は、「しばる、結びつける」ということが元の意味ですから、「自分自身を~にくっつける、すがりつく、しがみついて離れぬ(mid.)ということで、かなり密着した接触を意味しています。私は、東福岡教会の子どもたちと、あの二人の少女たちと、そして、死んでいったあの弟も、目には見えませんが、イエス様がしっかりと抱きしめて下さっていると信じています。人々は、イエス様に触れていただくために、抱き上げて、手を置いて祝福を受けるために、子どもたちを連れて来た。
弟子たちは子どもを連れてきた人々を「叱った」
ところが、弟子たちは、子どもを連れてきた人々を「叱った」というのです。「エピティマオー」という言葉は、「その価値相当のものを割り当てる」という意味です。「値段を決めること」です。女性会の人々は先日バザーで、品物に値段をつけましたね。あまり高い値段をつければ売れないし、せっかく精魂込めて、上手に作ったのに余りに安くすれば、バザーであると分かってはいても、出品する人を傷つけてしまいます。値踏みは難しい仕事です。イエス様の当時、こどもたちは、親の所有物であり、成人した人から見れば、まだ役に立たないものと看做され、あるいは、まさに「半人前」の扱いでした。弟子たちから見れば、子どもたちは宗教的会話にはまさに、「場違い」であり、むしろ、煩くて「邪魔」であり、まだ意味がないという「価値を割り当てた」のかも知れません。礼拝の中で不用意に音を立てたり、通路を走ったりして、特に年老いてくると、大人たちは、子どもたちのエネルギーを受け留めることが難しくなるのです。自分の子育ての時代をすっかり忘れて、「最近の親は子どもたちに甘い、躾がなっていない」などと考えてしまいます。それが、「たしなめる」、「叱る」と翻訳された、この言葉の背後にある弟子たちの気持ちです。しかし、主イエス様は、子どもたちを喜ばれ、受け入れ、祝福して下さったのです。イエス様の想いは、弟子たち、そして私たち大人の評価とは違っているのです。「そして彼らを抱き上げ、手を置いて祝福された」。ここでは普通の「祝福=ユーロゲオー」ではなく、「カテウロゴー=熱烈に激しく祝福する」、「メッチャ祝福する」という用語が用いられています。これが今朝、ここにいる子どもたちに向けられた嬉しい神の言葉です。子どもたちの皆さん、皆さんは、イエス様から招かれ、喜ばれ、祝福されているのです。東福岡教会はこのようなことを喜ぶ教会でありたいものです。
主イエスは、憤られた!
こどもたちを連れてきた人たちをたしなめた弟子たちを見て、主イエスは「憤られた」、というのです。これが今朝私たち、特に大人たちが聴くべき神の言葉です。「イエスは憤られた」。イエス様は、しばしば、思い上がる私に対して、時に自分を過大に評価してしまう皆さんに対して憤られるのです。イエスは憤られた。これは、ちょっと厳しくはありますが、嬉しい恵みの言葉ではないでしょうか。自分を何か大きな者、優れた者と看做し、幼い子らを見くびる危険性について、「そうではない」、「それは危ない」、「神の国を受け損なうぞ」と厳しく警告してくださるのです。そう考えればまさにこの主イエス様の憤りこそ「恵み」の言葉として捕らえることが出来るのです。自分なんかイエス様には相応しくない、教会員に相応しくないなどと思っている方、過少評価する人があれば、イエス様は、「そうじゃない」とあなたを叱って下さるのです。
ここで、主イエスは、子どもたちを何か純粋で、美しいものとして考えておられる訳ではないでしょう。スイスの神学者エドワルト・シュヴァイツァーはこんな風に言います。「子どもに罪がないとか、清いとは言われていない。ただはっきりしているのは、彼らは何もできぬ存在だということであり、また熱心過剰な弟子たちに対して身を守ることもできない、ということである。しかし、まさに、何も差し出すことの出来ぬもの、何の業績も数え上げることができぬ存在として、子どもたちは祝福を受けているのである」。まあ、大体は賛成できますが、シュヴァイツァーはちょっと子どもをバカにしてはいないか?とも思います。少年が差し出した大麦のパン5つと魚2匹でイエス様は5千人を養ったではありませんか。子どもたちは、何もできない存在ではありません。そう考える大人たちにイエス様は憤られたのです。
子どものように、神の国を受け入れる
ここで、語られているのは、子どもが本来持っている謙遜さとか、素直さ、天真爛漫さではありません。子どもたちは、結構遠慮なく我儘(自己中心的)です。ちょっと甘くすると、とことん要求してきますし、遊びがエスカレートして結局、泣くまでつき合わされます。大人では遠慮して言わないことでもはっきり言ってしまいます。まあ、子どもたちは、正直ではあり、だからこそ怖いのですが、その純真さが褒められているわけではありません。ここで、問題になっていることは、子どもが本来持っている美徳のことではないのではないでしょうか。大切なことは、子どもたちは、他者なしでは、他者の助けなしでは、決して生きられない自分であることを知っているということです。子どもたちは、他者なしでは、他者の助けなしでは、決して生きられない自分であることを知っているということです。彼らは自分が他者に依存しているということを知っており、その現実を「受け入れている」のです。この一点で、子どもたちは手本です。神の国は「このようなもの」の国であると言われており、神の国を受け取る手本となっているのです。実は、私たち大人もまた、神の一方的な恵みと神と他者の支えなしでは少しも生きられないのに、あたかも、自分だけで、自分の知恵と力と経験で生きていると勘違いしてします。そのような危うさに対してイエス様は警告してくださるのです。「危ない」!そして、皆さんを招きます。あなたも子どもたちが「受けるように」、神の恵みを「受け入れなさい」。
「はっきり聞いておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。今朝、主イエス様は、ここに集う大人たちも、子どもたちももちろん、しっかりと抱き留めて、祝福されます。子どものようになって、この恵みを受け取りましょう。(松見俊)
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