今朝は、礼拝において子ども祝福式がありますので、子どもたちに関係する聖書の箇所を選びました。「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた」という言葉で始まるマルコ10:13~16です。
1.子どもたちに触れていただくために
ここで話題になっている子どもたち(パイディオン)とは何歳くらいでしょうか?「イエスに触れていただくため」とあり、さらに、「子どもたちを抱き上げ、手をおいて祝福された」と言わるので、乳幼児から小学生くらいの年齢を想像すれば良いでしょう。「触れていただくため」は、「しばる、結びつける」ということが元の意味ですから、かなり密着した接触を意味しています。主イエスは、こどもたち、私たちをしっかりと抱き留めで下さいます。
2.弟子たちは子どもを連れてきた人々を「叱った」
ところが、弟子たちは、子どもを連れてきた人々を「叱った」というのです。この言葉は、「その価値相当のものを割り当てる」という意味です。しかし、主イエス様は、当時の人々の評価とは違い、子どもたちを大切にされたのです。「そして彼らを抱き、手をその上において祝福された」。ここでは普通の「祝福=ユーロゲオー」ではなく、「カテウロゴー=熱烈に激しく祝福する」、「メッチャ祝福する」ということです。
3.主イエスは、憤られた!
こどもたちを連れてきた人たちを叱った弟子たちを見て、主イエスは憤られた、というのです。しばしば、思い上がる私に対して、時に自分を過大に評価してしまう皆さんに対して憤られるのです。イエスは憤られた。あるいは、自分なんかイエス様には相応しくない、教会員に相応しくないなどと思っている方があれば、イエス様は、「そうじゃない」と叱って下さるのです。
4.子どものように、神の国を受け入れよ
ここで、主イエスは、子どもたちを何か純粋で、美しいものとして考えておられる訳ではないでしょう。問題になっていることは、子どもが本来持っている美徳のことではありません。大切なことは、子どもたちは、他者なしでは、他者の助けなしでは、決して生きられない自分であることを知っているということです。この一点で、子どもたちは、神の国は「このようなもの」の国であると言われており、神の国を受け取る手本となっているのです。今朝、主イエス様は、ここに集う大人たちも、子どもたちももちろん、しっかりと抱き留めて、祝福されます。子どものようになって、この恵みを受け取りましょう。(松見 俊)
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