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2016.11.27 「お言葉どおり、この身に成りますように」 (全文) ルカによる福音書1:26-38

0. 世界バプテスト祈祷週間を覚えて

 今日から私達は待降節(アドヴェント)に入ります。待降節は、イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスに備える時であると共に、かつて人として生まれて下さったイエス・キリストが、再び私達のところに来て下さることに備える時でもあります。

 また、今日から124日までは世界バプテスト祈祷週間です。インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師、ルワンダの佐々木和之博士、シンガポールの伊藤世里江牧師は、歴史、文化、言語、価値観、人種、気候、食物、水など、何から何まで日本と異なる中で、私達には理解出来ないような葛藤やストレスを抱えることもあると想像します。

 10年近く前の話ですが、私は、タイのバンコクに暫く滞在し、当時日本バプテスト連盟から派遣されていた日高嘉彦・龍子宣教師からご指導を賜ったことがありました。ところが、その初日、私は全く何も出来ませんでした。というのは、屋台で出された水を飲んで、食あたりを起こしてしまったからです。しかも、ベッドで臥せっている私の周りを蚊が飛び回り、デング熱に罹るのではないかと恐れました。そして、何よりもショックを受けたのはトイレです。バンコクの中心部にあるショッピングモールなどでは日本と同じように出来ましたが、宿泊先で紙を一緒に流して詰まらせてしまいました。これらの経験を通して、宣教師として働いておられる先生方に対して敬意を抱かずにはいられませんでした。

 また、先生方のお働きは派遣された国の政治・経済・社会の動きとも無関係ではいられません。実際、世界祈祷献金から「プリ子どもの家」というインドの貧しい子供達の教育に取り組む施設に今まで支援がなされてきましたが、インドでヒンドゥー教に基づくナショナリズムが台頭し、この施設は今年閉鎖に追い込まれました。

 私達には、自分の置かれた場で、自分の限界の範囲の中で、主なる神のために精一杯努力することしか出来ません。しかし、そのような私達を用いて主は歴史と世界を導かれます。「自分には大したことは出来ない」と私達は思ってしまいます。けれども、私達に今与えられているものは、偶然に与えられているわけではなく、主なる神から何らかの目的をもって与えられています。

 一方、イエス・キリストは、マタイによる福音書1041節で「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」と言われました。私達自身はその働きに直接携わっていなくても、主なる神から与えられた使命(ミッション)のために働いている人を助けることによって、その人と同じ報いに与ることが出来ます。

 一例を挙げると、野口先生ご夫妻がビザを取得することが出来たという報告が、礼拝堂に掲示されている「国外伝道ニュース」の中にありました。長さにすればたった1行です。軽く読み流してしまう一文です。しかし、世界中でテロが起こり、外国人のビザの取得が厳しくなっている中で、インドネシア宣教の門が開かれるよう、野口先生ご一家は祈り続けてこられたに違いありません。また、日本においてもそのことを覚えて祈ってきた多くの兄弟姉妹がおられたことと思います。そして、世界祈祷献金をささげてきた私達も、ビザの取得のことをはじめ、野口先生ご一家と喜びや苦しみを分かち合うことが出来ます。私達は、自分に与えられているものをもって、神の国と神の義の前進のためになることを為すよう求められています。

 

1. ナザレに遣わされた天使ガブリエル

 今日私達は、天使ガブリエルがマリアのところに来て、彼女が聖霊によってイエス・キリストを身ごもったことを告げる、いわゆる《受胎告知》の記事を読みました。主なる神は、イスラエルに約束された通り、御子イエス・キリストをこの世に送られました。その時、主なる神がご自分の御心を行うために選ばれたのは、貧しい大工ヨセフとその婚約者マリアでした。主なる神の御心を受け入れ、それに従う2人がいたからこそ、クリスマスは歴史的な現実となりました。今日はマリアに焦点を当てて、見ていきたいと思います。

 まず、26節を見ますと、「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」とあります。「六か月目」というのは、今日の聖書箇所の前に記されている、祭司ザカリアの妻エリサベトが妊娠した出来事から6か月が経ったということです。「子供がなく」、「既に年をとっていた」2人に子供が与えられました(17)。その時主なる神の天使がザカリアに現れましたが(11)、この時もガブリエルという天使が遣わされました。ガブリエルが向かったのは、「ナザレというガリラヤの町」でした。

 ナザレは今でこそイエス・キリストが生涯の大半を過ごした町として観光地になっています。しかし、当時はユダヤというローマ帝国の辺境の小さな属州の、ガリラヤという地方の中にあった小さな町でした。同じガリラヤ出身のナタナエルからさえ「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネによる福音書146)と言われています。しかも、天使ガブリエルがナザレに現れたのは、「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」(27)マリアに会うためでした。

 聖書において主なる神は周縁にいる弱い者を通してご自身の力を表されています。夜の祈祷会では今月から出エジプト記の通読が始まっていますが、強大国エジプトは弱小民族イスラエルが出て行くのを止めることが出来ませんでした。また、朝の祈祷会では先週マタイによる福音書1014節を読みましたが、イエス・キリストが選ばれた12人の弟子達は、ガリラヤ湖の漁師、人々から蔑まれていた徴税人、熱心党と呼ばれる右翼などでした。彼らは社会的に尊敬されるような地位や立場にある人達ではありませんでした。また、後に使徒とされるパウロは、ファリサイ派の律法学者として本格的な教育を受けたエリートでしたが、彼も元々教会の迫害者でした。使徒と呼ばれる人で脛に傷を持たない人はいません。主なる神はそのような人間を敢えて選んで、力ある御業を行われます。

 

2. マリアの人生を一変させた告知――「あなたは身ごもって男の子を産む」

 とはいえ、このことは当のマリアにとっては全く思いも寄らぬ出来事でした。天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28)と挨拶しました。そして、「あなたは神から恵みをいただいた」(30)と告げました。この後、天使は「あなたはこれから幸せな結婚生活を送る」と語ったでしょうか。そうではありませんでした。天使が彼女に告げたメッセージは「あなたは身ごもって男の子を産む」(31)というものでした。それはマリアの人生を一変させる告知、それも一方的な告知でした。

 「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(3233)とガブリエルは言いました。これは、主なる神がかつてイスラエルの王ダビデと結ばれた契約の成就であり(サムエル記下71213)、そのために用いられるのは大変名誉なことでした。しかし、マリアは別にそのようなことを願っていたわけではありません。

 しかも、現代の日本とは異なり、当時のユダヤにおいては、結婚前の妊娠は、姦淫の罪を犯したとして裁かれる可能性もありました(申命記222324)。それ故、マタイによる福音書119節には、ヨセフが最初「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」ことが記されています。これは、マリアを公衆の面前に晒し者にすることを願わなかったヨセフの配慮によるものでした。それでも、聖霊の働きによって身ごもったという話を、誰が疑うことなく信じてくれるでしょうか。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34)と戸惑い、恐れました。

 

3. ガブリエルの励ましとマリアの従順――「神にできないことは何一つない」

 それに対し、ガブリエルは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」(3536)と答えました。その上で、天使は言いました。「神にできないことは何一つない」(37)。この箇所をギリシア語の原文を活かして訳しますと、「神には不可能ではない、あらゆる言葉(rhēma)が」となります。人間には不可能に思われることも主なる神には不可能ではない。主なる神が語る言葉は必ず実現する。事実、妊娠など絶対に有り得ない高齢の体にエリサベトは子供を宿しているとガブリエルは語りました。この天使の言葉に励まされ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38)という言葉をもって応答しました。

 この時、彼女はガブリエルの言葉の意味を全て理解出来たわけではなかったでしょう。実際、イエス・キリストが宣教活動を開始された後、マリアは、良からぬ噂を聞いて、イエス・キリストを家に連れて帰ろうとしています(マルコによる福音書321節、31)。ましてや十字架と復活のことは、この時マリアは知る由もありません。マリア自身、自分が「聖なる者、神の子」の母になり、そのお世話をすることの出来るような人間ではないと誰よりも分かっていたでしょう。自分の限界を知っていたでしょう。自分の弱さを知っていたでしょう。自分の罪深さを知っていたでしょう。しかし、そのようなマリアを主なる神は選ばれ、用いられました。

 

4. 私達の内に住まわれるイエス・キリスト――「主があなたと共におられる」

 とはいえ、処女マリアが聖霊によってイエス・キリストを妊娠したというのはやはり信じられないという方がおられるかも知れません。その方には、主なる神がマリアの処女懐胎に優るとも劣らない奇蹟を今もお出来になることを知っていただきたいと思います。それは、イエス・キリストが私達一人一人の内にも宿って下さるという奇蹟です。イエス・キリストを自分の主とし、「お言葉どおり、この身に成りますように」と自分自身を明け渡す時、イエス・キリストが私達の内に住み始めて下さいます。

 イエス・キリストを自分の内に宿した後、マリアはどのような人生を歩んだでしょうか。旅先で宿屋に泊まることが出来ず、飼い葉桶に出産した子供を寝かせることになりました(27)。ヘロデ王がイエス・キリストの命を狙ったため、エジプトに逃げることを余儀なくされました(マタイによる福音書214)。「神から恵みをいただいた」どころか、逆に散々な目に遭っているように見えます。また、それはマリアが最初思い描いていた幸せな結婚生活から懸け離れたものだったでしょう。にもかかわらず、天使ガブリエルが告げたように、マリアは「恵まれた方」でした。彼女自身、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(48)と述べています。何故でしょうか。主が彼女と共におられたからです。「主のはしため」として主なる神に用いられたからです。

 同じように、私達もクリスチャンになったからと言って、不幸や苦難が降りかからないわけではありません。何事も思い通りに行くわけではありません。しかし、イエス・キリストが私達の内に住んで下さるならば、私達が理想とする姿にはなれないかも知れませんが、不幸が不幸で終わらない、落胆が落胆で終わらない、そのような人生を送ることが出来ます。私達にとって失敗や挫折に見えることも決して無駄に終わることはなく、それを通して主は御心を行われます。そして、後になって主なる神が自分を用いて下さったことに気付かされます。

 

5. 終わりに――私自身の証し

 今日、私は、世界バプテスト祈祷週間を覚える礼拝における説教者として御用をさせていただいています。しかし、正直なところ、女性会の方からお話があった時、内心複雑な思いになりました。国外伝道の働きは、日本バプテスト連盟の派遣宣教師だけでなく、日本ウィクリフ聖書翻訳協会、アンテオケ宣教会、OMFインターナショナル日本委員会など、様々な団体を通して行われていますが、数年前、私は或る国における国外伝道の働きに応募しました。当時福岡国際キリスト教会で副牧師として働いていましたが、「主なる神に自分の人生を献げると決意したわけだから、人が余り行かない(行きたがらない)所、しかし『主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き』(アモス書811)に苦しむ人がいる所で用いられたい」という願いを持っていました。けれども、この道は残念ながら開かれることはありませんでした。今から思えば、「私は守られた」と言えます。というのは、それからこの国の情勢は極めて不安定になったからです。もし現地の言葉をろくに話せない私が単身で行っていたならば、他の人に心配と迷惑をかけるだけで終わっていたかも知れません。とはいえ、このことで私はかなり落胆しました。

 一方、それから私は香住ヶ丘バプテスト教会に転会し、九州の幾つかの無牧師の教会で説教者として奉仕する機会が与えられました。教会員が皆ご高齢であったため、梯子に上ってクリスマスの飾り付けをお手伝いしたこともありました。私が3年ぶりの新来者であった教会もありました。普段は、近くの教会から牧師の説教のテープを借りて、それを礼拝の中で流して聴いているという教会もありました。これらの教会との関わりの中で、或る時私は気付きました。「人が余り行かない(行きたがらない)所、しかし『主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き』に苦しむ人がいる所で用いられたいという私の祈りは聞かれた」と。それは私が思い描いたような形ではありませんでした。しかし、私の願いは確かに叶えられていました。私は自分を用いて下さったことを主に感謝しました。そして、主に身を委ねるならば、為すべきことも途中で会うべき人も主が備えて下さるということを教えられました。

 マリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げられた方は、「恐れることはない」という励ましの言葉と共に、私達にも為すべき務めを与えて下さいます。海外に派遣されている先生方もそうです。夫々の教会で仕えておられる先生方もそうです。そして、これから夫々の家庭に、地域に、職場に、学校に遣わされていく私達一人一人もそうです。主が私達と共にいて下さることを信頼し、「お言葉どおり、この身に成りますように」という告白と共に、この一週間を歩んでいきましょう。(柏本 隆宏)