1.深い淵の底から主に呼びかける
“深い淵の底”とは、これ以上の苦しみはないと思うような、絶望のどん底です。出来れば誰もそんな状況に陥りたくはありません。しかし、たとえ深い淵の底のような状況にあっても、私たちは祈るべきお方、呼びかけることの出来る方をはっきりと知らされている、と教えられるのです。嘆くときにも祈ることができるお方、私たちの祈りを聞いてくださる、十字架と復活のイエス・キリストを知らされていることは、どれほど幸いなことでしょうか。
2.赦しは主のもとにあり
神は私たちの全ての罪を見抜いておられる方であり、私たちは主に対しては何も隠す必要がありません。ヨハネによる福音書8章での姦通の現場を捉えられた女性に石を投げつける者は結局誰もいませんでした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」、このイエス様の声を聞いた全員が罪の自覚に至ったからです。イエス様との出会いによって私たちの罪に真剣に向き合い、そしてそのイエス様によって罪は赦されていることを知る、これは大きな恵みです。
3.御言葉を待ち望む
人には希望が必要です。130篇の詩人が待ち望んでいるものは“御言葉”です。この詩人が自分の具体的な苦しみの状況が、自分が望むように解決されるようにという祈りではなく、“御言葉を待ち望んでいます”と祈っていることは私たちを大変力づけます。それは、聖書の御言葉こそが私たちに生きる力と勇気を与えるものだと教えられるからです。
見張りが朝を待つように“必ず朝は来る”という希望を頂いて、緊張感をも持って御言葉を待ち望むとき、きっとその時々に私たちに必要な御言葉が私たちには与えられ、その御言葉が私たちが悩み苦しみにある時にも力を与えてくれます。
4.個人の希望が共同の希望
7~8節で詩人は「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」と歌います。ここで、主に祈ることができる恵み、そして罪許されたという恵みが、この詩人個人だけのものから、イスラエル全体に対しての“主を共に待ち望もう”という呼びかけへと変わっていきます。主から頂いた信仰は、ただ自分のものとだけしておくことはできないのです。
共にイエス様を待ち望みましょう。そして御言葉を待ち望み、与えられた御言葉が私たちの日々の歩みを導くものとなるように祈りましょう。私たちの罪は赦されました。東福岡教会の兄弟姉妹の共同の望みとして、イエス様の御降誕を感謝と喜びをもって待ちたいと願います。(酒井朋宏)
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