1.この人はメシア(キリスト)か
7章25節から31節の箇所に新共同訳聖書では「この人はメシアか」という見出しが付いています。わたしたちは「この人はメシア(キリスト)か?」という問いかけにどう答えるでしょうか。私たちは社会の中で、“この人(イエス)は誰か”という問いに、どのようにして答えているでしょうか。
2.神との関係
イエス様の教えの内容にユダヤ人たちが驚いて7章15節で「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言っています。“知っている”=“オーイダ”は“直観的、確実な知”を表すとされています。イエス様による聖書理解は神様との親密な関係に基づいた確実なものであったのです。
25節の人々の言葉では、信仰の決断を迫られる際の私たちの揺れる心、信仰を公にすることの恐れが描かれていると思います。それはまた信仰者である私たちも、影響力のある世の中の流れによって自らの信仰が揺さぶられていないか、自分の信仰がイエス様との関係にしっかりとむすびついているだろうか、と一度立ち止まって自らの信仰の在り方を考えるように促されます。
3.イエス様の呼びかけ
“この人はキリストではないだろうか”ここでの人々はそう信じかけている様子が伺えます。28節「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており(オーイダ)、またどこの出身かも知っている(オーイダ)』」。あなたたちは、親密な関係において神を知るようになったのだから、その関係に安心して入りなさいという呼びかけが、ここでなされています。
4.遣わされた者
私たちがこの世界に生まれてきたこと、今もこうして生きていること、これは私たち自身によってではないのです。私たちは主によって作られ、主のご計画によってこの世での生を頂いたのです。そして私たちをこの世界に生まれさせたお方は真実な方であると聖書から教えられます。私たちひとり一人に神から託された使命、賜物があることを是非覚えたいと思います。
5.イエスの時
イエス様が人々に捉えられる時はまだ来ていませんでした。イエス様は、最後は捉えられ十字架に掛けられましたが、それまでは誰もイエス様を捕らえることはできなかったことが示されます。
31節~:群衆の中の“大勢”は信じましたが、少数信じない人もいました。なぜ私たちはイエスは主と信じることができたのだろうかと考えさせられます。やはり私たちが信じることができたのは、聖霊の働きであり、神様がそうしてくださったとしか言いようがないのです。
そして人々が“メシアがきてもこれ以上のしるしをするだろうか”と思ったその心中は“ただ目にみえるしるしでなく、このお方の言葉は神の言葉であり、このお方がなさっている業は神の業だ”ということが人々に知らされたということであり、信仰の最終的な決断を迫られている人々の様子が描かれていると思います。(酒井朋宏)
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