新年に入り、昨年のことを話題にするのは、少し気が引けますが、昨年の流行語は広島カープの優勝にからんで「神ってる」という不思議なことばでありました。また、恒例の清水寺での昨年の漢字一字は「金」でした。毎年、クリスマスの説教に世相を表す言葉として「流行語大賞」と「漢字一文字」に触れるのですが、昨年は余りにバカバカしく、空しく触れる気にもなりませんでした。そこまで、日本社会とそこに生きる人の荒廃が進んでいると言って良いでしょう。今朝、選んだというより、昨年暮れ、今朝のために選んだ聖書箇所は、イザヤ46章3節後半から4節の言葉です。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出たときから担われてきた。同じように、わたしはあなたがたの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負って、救い出す」と主なる神は預言者の口を通して語ります。今朝はこの素敵な言葉を聴きましょう。
1.滅亡と絶望の中から
この素敵な言葉は、イスラエルの民の滅亡、絶望の中で語られました。第二イザヤと呼ばれた無名の預言者の言葉ですが、紀元前540年頃の時代です。この紀元前6世紀というのは歴史的には重要な時代です。昨年大学院のクラスで英語の文献を読んでいましたら、Axial Age「基軸的時代」という言葉があることを知りました。紀元前500年頃のことです。哲学者ヤスパースの言葉であるようですが、人類が経験した画期的時代というような意味でして、中国では春秋戦国時代で、儒教(孔子は紀元前552年)生まれ、インドでは、仏陀が生まれ、ギリシヤでは「万物は流転する」と言ったヘラクレイトスが540年の生まれ、ソクラテスが469年頃の生まれです。そして、イスラエルでは、預言者が活動しました。青銅器文化から鉄器文化となり、生産力が増し、都市国家ができるようになると、人間同士の戦いも始まったわけです。第二イザヤの時代、イスラエルにおいては、バロニア帝国によってエルサレムの町が崩壊し、ダビデ王朝が滅亡したのが、紀元前587年のことです。民の主だった人々は捕虜としてバビロンに連れていかれたのでした。バビロニア帝国は現在のイラク辺りですが、第二イザヤが活躍した紀元540年ペルシヤ、現在のイランのあたりの帝国が世界制覇をするというような時代です。あの希望の言葉は、まさに、イスラエルの民が滅亡の危機と絶望的状況の中で語られたのです。絶望を知らない希望は単なる幻想であり、希望を知らない絶望は単なる虚無主義・ニヒリズムです。信仰の、希望の言葉は、まさに、イスラエルの民が滅亡の危機と絶望的状況の中で語られたのです。
2.偶像:人に「担われる神々」
預言者イザヤは偶像礼拝の無力さ、可笑しさについてこれでもかとばかりに語りますが、46章においても、バビロニア帝国の偶像礼拝について批判しています。「ベル」とはバビロニアの中心的神話「エヌマ・エリシュ」の神であり、天の神、神々の父であり、その聖地はニップルと言う都市です。「ネボ」とは、菅原道真のように、知恵の神、学者の守護神です。バビロンの王に「ネブカドネザル」という人がいますが、「ネボ」という言葉が名の一部に用いられています。ここで語られているのは、神殿に安置された偶像を家畜の背中に追わせて、町の城壁の回りを巡って行進し、町に繰り出す華麗な祭りの模様か、あるいは、迫りつつあるペルシヤ帝国によるバビロニア帝国の滅亡に直面して、人々が、神の像を台座から降ろし、神殿から、安全な場所へ避難させようとしているのかを描いているのだと考えられています。神々は、家畜の背中に据え付けられて動くのであり、あるいは、人間が神輿として担ぎまわるのです。7節では、「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってくれはしない」と言われており、そのような神々を担っている家畜たちは、その重荷で喘ぎ、躓き、倒れ、ベルもネボも家畜と共に、かがみこみ、倒れ伏すのです(1節)。自分では動くことができず、家畜や人に依存しているような神々が「偶像」です。日本社会はこのような神々に満ちており、圧倒的力で私たちの生活に迫ってきます。上辺は、流行語大賞の「キン・金」で、どこか洗練されてはいますが、まかしであり、本質は、金儲けの貪欲と、相手を叩き潰すどう猛さで満ちているのです。イスラエルはその偶像の国に軍事力、経済力、政治力に劣り、支配されているのです。結局、人や被造物がこの世を支配し、強い者が支配している現実は、古代と現在とで変わりがないのかも知れません。
なんという倒錯でしょうか。ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。それを担ぐ人も動物も偶像も限界のある、限りあるものです。神々を背負わされる獣、家畜は疲労感で倒れ、神々もまた、それらともども倒れ伏し、自らを救う力はないのです。確かに偶像は煌びやかで神々しい。6節「袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って、神を造らせ、これにひれ伏して拝む」。しかし、神々が民を担う代わりに、神々が民衆を救う代わりに、神々が人や動物に、担われ、その重荷となるとは!なんという倒錯でしょう。「偶像礼拝者は自らの神々を救わねばならないとは!」そのような偶像の支配は決して長続きはしません。そこに命がないからです。
3.徹底的にその民を担う神
しかし、イスラエルの神、われわれが信頼する神はそうではありません。人は、生まれた時は、おしめをして、親に抱っこされ、おんぶされて、そして、やがて、自分で歩き始め、自立していくものです。われわれは、一人残らず、親、あるいは保護たちという他者によって担われてきたのです。「あなたたちは生まれたときから負われ、胎を出た時から担われてきた」。エジプトのスフインクスは通りがかりの人々に「なぞなぞ」を仕掛けたと言われています。「初め4本足で歩き、やがて、2本足であるき、最後に、3本足で歩くものは何か」?人ですね。人は、生まれた時は人におんぶされ、老いてからまた、杖が必要になる。これが、人間の現実であす。むろん、青年・壮年期も結構、他者の支え、世話になっているのであり、一人で生きていると錯覚しているだけではないでしょうか。イスラエルの神は、さまに、揺り籠から墓場まで、その民を担い、背負って下さるというのです。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(4節)。まあ、薄情で問題の親もいますが、人間同士の関係と、人と神の関係も同じであると言います。神が人間を造った、「造った」というのはちょっと唐突ですから、「ナサーティー」と読めば、「担ってきた」となります。神が人を創造された、そうである限り、責任を持って、私たちが老いる日まで、白髪になるまで、背負って歩んで下さる。神ご自身が、私たちを担ってきた過去の歴史がそうであるように、老いて白髪になっても、いやその時こそ、背負って、救い出して下さると約束しています。偶像のように、私達が神を担い、背負うのではなく、神ご自身が私たちを背負って下さるのです。ここでは、見事に、1-2節と7節の、偶像を「負わされる」「担わされる」「救い出す」とまことに神が「負い」、「担い」「救い出す」と言われています。こうして、聖書の神は、「人に、動物に担われる神」ではなく、私達を徹底的に担って下さる」神なのです。
4.わたしに聞け
われわれは、新しい年、「わたしに聞け」と命じられています。真の神に「聞く」ことが必要です。この「聞け」は、12節でも「わたしに聞け」と繰り返されています。そして、同じような内容ですが、8-9節では、「反省せよ」「思い起こせ」「思い起こせ」と言われています。わたしたちは、「共に」(原文ではないようですが)、交わりの中で、相互の祈りと礼拝の中で、聴かねばならないし、聴くことができるのです。ニュース、しかも、かなり偏ったニュースの中で、洪水のように溢れる情報の中で、私たちは、選択を迫られています。「人に、動物に担われる神」を選ぶのか、私達を徹底的に担って下さる神に聴くのかです。偶像礼拝者にならず、生ける神を信じ、生きる者になりましょう。
「反省せよ」、「思い起こせ」ということですが、イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から救い出され、また、われわれは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、罪と律法と死から解放されているのです。そこことを「思い起こせ」。いや、そのような過去の恵みの出来事にもかかわらず、いかにイスラエルが不従順であったか、いかに、キリスト教徒がイエス・キリストに忠実でなかったことがを「反省せよ」と呼び掛けられています。
私たちの希望の根拠は、過去の救いの出来事だけではなく、将来の約束にも基礎づけられています。10節では、「わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する」と約束され、13節では、「わたしは語ったことを必ず完成させる。」「わたしの恵みの業(ツェダカー=「義」)を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。わたしは遅れることなく救いをもたらす。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの輝きを与えることにした」と言われています。「神の歴史の連続性は、ただ神が担って下さる、その誠実さに基づいている」のです。
5.残りの者よ
「残りの者よ」。これはイザヤ書に頻繁に登場する有名な思想である。神はイスラエルを全部滅ぼされるのではなく、必ず「残り」を残しておかれる。決して全滅ではありません。日本社会ではキリスト者は絶対少数者です。「残り」とは余った、どうでも良いもにではなく、「残りものには福がある」という諺通り、まことに小さな、残りのようなものから、神様の新しい業が、歴史の中で始まるのです。ですから、少数者であることに絶望することはありません。信仰の残り火を消さないように、燃えさしを「扇ぐ」働きをせねばなりません。物質的繁栄、自己陶酔的快楽、日本第一という優越感と他者を排斥する「ナショナリズム」という決して「美しくない」社会、大企業に支配され、政治とマスコミ報道も誤魔化しの社会にあって、私たちは、地の塩として、世の光として生きましょう。「担うこと」「仕えること」(奉仕すること)他者のために、自らの損失を厭わず、むしろ、苦難を受け、罪をゆるすイエス・キリストは、本当の意味で、歴史に耐える勝利者なのです。(松見俊)
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